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華厳の道 第七章 『天地五龍』

更新日:4月20日




天地五龍相生相克



最初に陰陽五行図を見た時、

「これ、ちょっとおかしいだろ?」

と初見で思った。


どうして誰も「おかしい」と思わないのか?


たぶん自ら「気付き」を『無かったコト』にしているのだろうと思う。




これが五行図であるが、これを見て「???」となったわけである。

どこに「???」となったかと言うと「思」である。


感情の巡りを現わしている五行図であるが、そこに「思」というのがある。

そもそも「思」とは感情か?どんな感情なのか?


「思」が「感情」であるわけはなく、それよりも「怒」「喜」「悲」「恐」という感情を「思惟」するものである。

「怒り」を思い、「喜び」を思い、「悲しみ」を思い、「恐れ」を思う「思惟」である。

であるならこの図は「おかしい」のである。


その「おかしな」ものを基本として使用しているというのは、そもそもの根本が「間違う」原因である。

なぜそれが「訂正」されることもなく使用されているのだろうか?


その疑問に答える何物も無い。

誰も考えてこなかったということなのだろう。



であるならば、あとは「自分で」答えを見つけるしかない。


そうしてたどり着いた「答え」が『天地五龍』である。



中心となる「思」は『渦』である。

怒り、喜び、悲しみ、恐れを巡らせる『渦』であり、それぞれの感情を「思惟」する土台である。


感情が湧き立つ時に「思い」という中心に感情が流れ、そして「思う」ことにより次なる感情へと移行する。



だが、感情が湧き立ち「思い」へその感情が流れ込んできても「見ようとしない」もしくは「その感情に執着する」など「思い」というものが「純粋」でなければ、「巡り」は狂うこととなる。


「純粋」とは「あるがまま受け取る」ということであり、あるがまま受け取らなければ「思い」に残滓が残り、それが「穢れ」となって影を生む。




例えば、怒りに「思い」が停滞したり、喜びに、悲しみに、恐れに停滞すれば、巡りは失われるばかりか「中心」となる「思い」が「恐」になったり「怒」になったり「喜」になったり「悲」になったりしてしまう。

「恐」に停滞し「恐」が「思いの中心」になれば、「恐」が基本(土台)の「思惟」となり、恐れゆえ怒り、恐れゆえの喜びを望み、恐れゆえ悲しみを引き寄せるという「乱れ」となるわけである。


中心にある「思」 は本来「空(純粋)」でなければならない。

「空」は常に感情を「受容」するものであり、けっして「否定」しないから「巡り」は順当に流れる。

だが「思」に何らかの感情が「滞留」してしまえば、「受容」するための「空き」が無いため、巡ってくる感情を「否定」するようになる。

ある特定の感情だけを「受容」するようになるのである。

それが相克、相乗、相嫌という「乱れ」を生む原因となる。



このように「五行図」を「五龍図」に転化したとき、すべてが合致した。

つまりは「これが正しい」ということになる。



「五龍図」において「思」は常に「空」であり、それゆえ「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」という心経(心の在り方)は表現されていることとなる。


「空」とは「無」ではない。

「空の器」であり、この図の場合であれば「感情」が「留まっていない」状態であり、そうであるから「純粋」な「心」が体現され表現される。

純粋な心の体現、表現とは「その時々の感情が純粋に体現、表現される」ということである。

恐れが濁ったり、怒りが濁ったり、喜びが濁ったり、悲しみが濁った「感情」ではない純粋な感情であるということだ。


そしてこの「五龍」の在り方はすべてに通ずる。






「五」という基本



五臓



たとえば体に於いて「五体」とは「両手、両足、頭」の五つである。

そして、五体の「中心」となるのは「頭」である。

「頭」が両手、両足を動かすわけである。


では「五指」という手指、足指においては「中心」となるのが「親指」である。

親指は他の四指とは在り方が異なる「中心」の機能を持つ。



では「五臓」ではどうだろうか?



五臓ではこのように「脾」が中心となる。

「脾」とは人体すべての「土台」となる「水穀」を司る。

「水穀」とはいわゆる飲食によって栄養を補給するということ。

それがなければ体は維持できない。

ゆえに「脾」はすべての土台であり中心となる。


また、心肺は密接に繋がり、肝腎も密接に繋がる臓器である。

経絡では心肺は上半身に在り、肝腎は下半身に在る。

心肺と肝腎は陽陰の関係性となる。

さらに肝と肺は「気」を司り、肝は「内気」肺は「外気」を司る。

心と腎は「水」を司り、心は「血」腎は「津(津液)」を司る。

この関係性においては肝と肺は陽となり、心と腎は陰となる。

つまり心肺においては心は陰、肺は陽となり、肝腎においては腎は陰となり肝は陽となる。


これら四つの臓器を陰陽分離するならば、肺は「陽陽」心は「陽陰」肝は「陰陽」腎は「陰陰」という分類が出来る。


そして「陽」とは「火」であり、「陰」とは「水」である。

つまり「火水(神)」の理(ことわり)がそこにはあるということだ。

常に「火と水」が連鎖し交わるところに「命」が生まれる。

「命」という「巡り」が生まれるためには「火水」の結びの循環が必要なわけである。

それがあるから肝、心、肺、腎が「相生」という巡りを生む。


そして、その巡りを「保証」するように「脾」が各臓器を支えているわけである。






チャクラ



この「五つ」の摂理は「チャクラ」にも当てはまる。

チャクラと言えば普通「七チャクラ」という数を思い浮かべるだろう。

ではそれらの七つのチャクラの「意味」は?


恐らくほとんどの人がそんなことに疑問すら思わず、誰かが語っていることを「鵜呑み」にしていることだろう。


私は「なぜ七つなのか?」が不思議でならなかった。

「ただそうだから」

ということで「はいそうですか」とはならない。

ちゃんと意味が解からねば「先へは進めない」のである。


なぜなら「間違っているかもしれない」からである。



以前、出版した【華厳の道】でも書いたが、私は「チャクラの覚醒」というものをまさに体験した。

そしてチャクラが「回る」ということも体験し、「彩り」というものもしっかりと観た。

だから「七つのチャクラ」の『関係性』というものが従来から語られている話の中には「答えが無い」ことも知った。


その体験という「事実」を基に理解したものが次の図である。



つまり、チャクラは「二つ」と「五つ」に分けられるべきものであるということだ。

簡単に言うと、広く知られている「第一と第七チャクラ」という二つと、「第二から第六チャクラ」までの五つのチャクラに分類される。


そして「第2から第6チャクラ」はさらにこのようになる。




第一チャクラと第七チャクラは「天地」であり「陰陽」の『扉』である。

つまりは『太極』のチャクラであり「火水(神)」を生む神「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」ということになる。

そして、その『扉』・・・つまりは『岩戸』なのである。



第七チャクラ(伊邪那岐命)から「火」が降りて、第一チャクラ(伊邪那岐命)という「水」に堕ちた時、『クンダリーニ(加具土命)』が生まれる。

そして、その『クンダリーニ』が「五つのチャクラ」を『開花』させるのである。


それが私が体験した「チャクラ覚醒」の『事実』である。



覚醒し回り始めたチャクラの花は「五葉花」であり、回りながら色彩を変えてゆく。

その色彩は「五色」である。

白、黄、赤、緑、青

この基本五色が回転するチャクラの五葉花の色彩を変えながら、混ざりあいながら回る。

そして基本の花の色は白。

つまり「空」である。

空である「白」を土台に、黄色から赤、緑、青と色を変えゆく。

その過程でオレンジや黄緑色、水色、紫というふうに様々な「混合色」が表れる。



これが「チャクラ覚醒」の一連の「流れ」である。


まず最初に天地のチャクラである「第一と第七」のチャクラによって「結び」が成されなければならない。

そして順序は「第七」から「第一」へと「火」が降りることである。


つまりは「第七チャクラ」という「岩戸」を開くことが『一番最初にやらなければならないこと』なのである。




多くのヨガを語る人々は、大方が「第一チャクラ」から「順番に」第二、第三・・・・・

というふうにチャクラを「開発する」ということをしている。

だからだれも「覚醒」には至らないわけである。


ましてや「第一」という『伊邪那美命』からである。

それは『ヒルコ』を産むという「禁忌」なのである。


ゆえに多くの人は第二、第三チャクラあたりばかりが活性され、やがて「性的エネルギー」に支配されてゆく。

そして禍々しい「横道」に逸れてゆく。


自ら産んだ「ヒルコ」の霊に憑かれ、霊懸かり状態へと陥ってゆくこととなるのである。






チャクラの覚醒とは?



チャクラの覚醒とは何なのか?

それをまともに答える人に、またはそれを語る言葉に出会ったことが無い。


そもそも「チャクラ」とは何なのか?

それが解からなければ、何が「覚醒」なのかもわからず、「覚醒」させる意味など無いのである。



「チャクラ」とは一言でいえば「次元」を跨ぐ器官と言うことが出来る。

次元を跨ぐというのは、身体と霊体という別次元の体の「双方に関わる器官」であるということだ。


つまりは「新たな霊的器を産む」ということである。

「自分」という霊的存在はすでに身体という器に存在する。

そして、チャクラが覚醒することで「別の魂」がそこに入り込み、新たな存在がそこに誕生するということである。



その前に「基本」いうものを話しておこう。

人は生まれながらに「欠けた」存在である。

もっと言うなら「半分しかない状態」が従来の「人」である。


そして、人の「完全体」というのは「二つの魂」が在って初めて「完全体」となる。


「半分しかない」というのはつまり「陽」もしくは「陰」どちらかの魂だけということ。

そして「陰陽」が和合し同時存在して初めて「完全体」となるわけである。

そのために「もう一つの体」が必要なわけであり、それを創造するのが「チャクラの覚醒」である。

だから「五つ」という体の「基本形」が必要なわけである。

「五」は「摂理」であるのだから。



そして「チャクラの覚醒」によって新たな「器」となるものが出来た時、チャクラの覚醒を促した「天」からの意思の「魂」がその器に宿る。

それが「神人和合」であり「神との結び」であり「神との結婚」というものである。



同時存在する新たな魂は、この肉体を「使える」ようになる。

それは、今までの「自分」に「溶け込んで」くるような、または「混ざり込んで」くるようなものである。

新たな魂は「思考」を使い、「行動」を制御し、「思い」を『共有』してゆく。


初めは「違和感」によって「違い」がよく解かるが、時間がたつにつれてそれが「当たり前」となれば、もはや「別」という意識は薄れてゆく。

だがやはり「別」であることは確かである。




天の岩戸(第七チャクラ)がまず開き、自身の系譜(縦糸)の神の御子の魂(分魂)が降りてきて、火が水に落ちる如く地引の岩戸(第一チャクラ)を開いて「黄泉(霊的泉)」に落ちて誕生する『龍』という「器」が五つのチャクラを覚醒させて「五体」へと転換する。

そうして「身体」に即した霊体が重なり、混じり、溶けあうように「身体」を『共有』するようになる。


ひとつの身体に陰陽二つの魂が和合して「半分」だったものが「完全体」となる。

それが「チャクラ」というものの存在意味であり、覚醒させる意味である。



新たに降った魂は「神の御子」そのままであり、だから「神意」を直接受け取る・・・というより「思考」がすでに「神意」となる。


神懸かりも必要なければ神意を受け取る必要もない。

そして、それが新しい世界の「人の姿」となる。

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