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新しい術【癒奏術・般若】・・・乙姫命の玉手箱

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例えば、あっさりと霊的な視覚共有、感覚共有が出来る人がいる。


いわゆる『以心伝心』というものである。


その『以心伝心』の実像は、「同じ場所」に立っているから・・・となる。



観自在状態というのは、意識が肉体の枷を離れ、「霊体側」にある状態。


つまり「同じ霊体側」という『立ち位置』で観ている状態であり、それを『以心伝心』というのである。



では更に意識が上昇して「神域」に到達し、神と融合した状態での立ち位置の共有が出来れば、同じ「神の眼」という「観自在状態」の立ち位置で同じものを『観る』ということもできる。


なかなかそのような状況には遭遇しないが、それはすでに実証済みである。




例えば、遠隔でエネルギーを送った時に、そのエネルギーをあっさりと感知し得る人がいる。


それも先のケースと同じく『以心伝心』である。


観自在の「観」は眼で見るだけではなく、五感のすべてで「観る」ということ。


五感とは肉体の感覚でありながら、肉体が発したエネルギーの「変化」を察知するものであり、ゆえに「肉体」ではない。



『気』というものがある。


肉体に沿って存在する『気』というエネルギーには「電気」「磁気」「英気」「覇気」「陽気」「陰気」「瘴気」「邪気」「妖気」「毒気」そして「神気」・・・など様々ある。


立ち位置が「霊体」となればそれらの「色分け」が出来るわけである。


つまり、霊体とは「気体」である。




『観自在』状態になるということは『気付き』そのものの状態であり、その『気付き』の連鎖によって対象の実像がより鮮明になる。


肌感覚という触覚から対象となる「気」の質感、温度感、重量感などに気付き、嗅覚や聴覚などでも「違い」に気付き、そして対象の実像が「視覚化」される。


その順序は一つではない。


突然視覚化から始まる場合もあるが、やはり触覚や聴覚、嗅覚、さらには味覚などでの「サニワ」を経なければ、「真の実像」はわからない。


他感覚の連鎖によって実像が変わることが多々ある。


それは実像の姿を『見抜く』ということでもある。




人はあまりにも「視覚」に依存し過ぎる。


それゆえに「霊覚」が養われない。


「霊覚」が養われなければ霊体という自分の立ち位置は確率出来ず、ゆえに『観自在』に至らないわけである。




霊体という「気体」は常に肉体と共にある。


肉体が放つエネルギーと、自然のエネルギーは何ら変わらない。


肉体も「天地自然の物質」で出来ているのであるから当たり前である。


違うのは、肉体は天地自然の様々なエネルギーが集約されているということ。


つまり、肉体を持つ霊体は常にエネルギー供給がされるという恩恵を受けている。



ただ、人は「肉体の五感」と「霊体の五感」の「違い」がわからない。


それは「霊体」というものの認識がズレているからだろう。


意識が「肉体」に囚われすぎて、だから「物質限界」という認識を持って「観る」から間違う。



例えば「飛ぶ」という言葉は肉体と霊体の認識では全く違う。


肉体の認識で「飛ぶ」という場合、距離や速度や重量や、その他諸々の考えを意識する。


しかし、霊体で「飛ぶ」という場合、それらの理(ことわり)は無視され、瞬時に「そこに在る」という状態を「飛ぶ」と言う。


距離や速度や重量などが「無意味」なのが「霊界」であるということがそれで解かる。



これは「飛ぶ」という言葉が「呪い」となっているわけである。


実際、霊界では「飛ぶ」のではない。


距離も時間も重量も関係のない世界なのであるから「飛ぶ必要がない世界」であり、だから「飛ぶ」という言葉はある意味認識を歪める「呪い」なのである。



霊界に「距離」というものがあるなら、それは「意識」の距離というものである。


良く知っているか知らないか・・・・


それで「距離」が変わるということになる。




だが実は人は無意識にこの能力を使ってはいるわけである。


他人との「距離感」などというものがそれである。


それは「霊界」の距離そのもの。


物質的にはすぐ近くに居ても、霊的には遠いということである。


それを人は既に知っているのだが忘れている・・・というものがたくさんあるわけだ。


「空気感」というものもそれそのものであろう。



人は霊感を使っていながら「霊感など信じない」というわけである。




この自ら行っている自分への「呪縛」を解き、さらに感覚に磨きをかけて霊としての自分、気体としての自分を取り戻す。


そのための修養をするのが【癒奏術・般若】です。



エネルギーを知りその感覚を研ぎ澄ます・・・・


エネルギーの種類はけっして一つではない。


それらの色分けが出来れば、導きの、気付きの「サニワ」は当たり前の事となる。



そして『観自在』の状態、つまり【菩薩】となるための霊体修養


それが【癒奏術・般若】です。




これは【乙姫命】よりのプレゼント



ではなぜ【乙姫命】なのか?



伊都能売神である十柱の神は人の「肉体」「霊体」を司る【キヒツカミ】


肉体の五臓と霊体の五チャクラを司り、日々人々と共に在る神


その中で【乙姫命】と【天津彦根命】の夫婦神は『息吹き(意吹き)』を司る



「肺」は五臓の中で唯一、意識と無意識の両界にまたがる器官


そして「第五チャクラ」という「息吹き」を司るチャクラ



それゆえ「意識」して修養するという目的のため【乙姫命】からの贈り物として預かった『事霊(ことだま)』です。



先日、『玉手箱』として送られた言霊の中に、この『事霊』も入っていました。






以前から「感覚の違い」というものをどのようにすれば埋められるか?


霊覚の認識、知覚、理解の溝をどのようにしたら埋められるのか・・・ということをずっと考えていたからでしょう。



乙姫様からありがたく【道】を示していただきました。



『気付き』という「霊体の知覚」を修養するため、施術と遠隔と教えと導きを交えて伝えたいと思います。


たぶん一度で何もかも修得することは出来ないでしょう。


だから自身で独自に練習する手段も必要となるでしょう。



【般若】を行う前に【天地五龍】の施術を行ってから・・・ということになるでしょう。


まずは伊都能売の十柱の神との結びが必要でしょうから。



それらをもう少し煮詰めてカタチとなったら始めたいと思います。


もうしばらくお待ちくださいませ。




亞空




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