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【言霊ラジオ】#8 『魂への回帰』 ~魂…霊の故郷への道








魂への回帰




魂への回帰というものを理解するには、「魂」とは何かを理解しなければならないわけで・・・


その「魂」については確か「言霊」についてをお話した回に話していたと思います。


「魂」とは自分自身の「存在」の一番最初にあるもので、その「意思」があって初めて自分という存在がこの世に具現しているという、非常に大事なものです。


それは、言い方を変えると「自分が来た場所」であり、その場所から現世へと繋がる「一番最初の門」でもあります。


つまり、自分が「来た場所」・・・「魂の故郷」へ帰るには、自らの「魂」の「意思」へと回帰しなければ「帰れない」わけです。



亡くなった方が霊となって「彷徨う」のは「魂の意思」という「故郷への道」がわからなくなっているからで、だから亡くなった方を「故郷」へと帰還できるようにするために「弔う」わけで、霊界に対して「亡くなったので、さあ引き上げてください」ということでもある。



人の霊は「身体」を失えば「エネルギー供給源」が断たれます。

そして今まで「脳」を使っていた「思考」も出来なくなります。

あるのは「思い」という「心」の働き・・・・


「霊」は人のように思考はしませんし出来ません。

三次元の理ではないのですから当然です。

まぁほとんどの人はそんなこと気付いていませんが・・・・


「思考」と「思い」の区別もついていないでしょう。



思考という明確な世界から、思いというもっと曖昧な世界へと行くわけです。

その「曖昧さ」というのは「思考」という三次元から見た感想です。


そんな「理(ことわり)」の変化に対応できずに彷徨う・・・・

つまりは「迷子」ですね。


そんな「迷子」の霊を「魂の故郷」へと還すために「弔い」をするわけです。

「お迎えに来てください」

という感じですね。


デパートで迷子になった子供のことを「アナウンス」して「お迎えに来てください」というのと同じことです。




迷子の時間が長くなれば、身体を失った霊はエネルギーの供給源を失っているわけであり、だからだんだんと「希薄」になって行きます。

脳が無いのですから「思い」の記憶の弱いものから薄れていくわけです。

そして、一番強い思いが最後まで残る。




霊界は思考の世界ではなく思いの世界ですから、霊が観るものは「思い」です。

思いの世界にある様々な「思い」を観て彷徨っているわけです。

言い方を変えれば「思い」が生み出しているエネルギーです。

つまり、潜像世界の「潜像」という映像を見ているわけです。

そして、迷っている霊は自分が行くべき場所はどこだろう・・・という漠然とした思いによって彷徨うわけですから、自分の「思い」に近い場所へと自然と吸い寄せられていくわけです。





このように「迷子」となるかならないかは生前の生き方に直結しています。

魂が帰る場所というのは、魂が来た場所でもあるわけです。

言わば「魂の旅」をしている状態が、この世で生を受けている時間なわけで・・・

そして、「旅」をするからには最初の「目的」というものがあるわけです。

その「旅の目的」が「魂」の根本にある「意思」という「思い」の根本です。








禅の瞑想について少しお話しましょう。

禅の瞑想は「思考」を「思い」を「観分ける」ものです。

この「観分ける」とは「観」という字になります。


瞑想は「思考」を止めるものではありません。

思考とは「思い」に常に反射反応をするものです。

だから「観分ける」ための訓練をするわけです。



これを観分けると何がわかるのか?


思考とは自分が発しているものです。

ですがそれは「思い」に反射反応しているだけです。


そして、「思い」だけを観ることができるようになれば、それが「自分のものではない」・・・つまり「自分が発しているものではない」というものがいかにたくさんあるかということがわかるようになります。


「思考」と「思い」が「同じもの」であるとして認識していれば、それはわかりません。



思考と思いの「分離」によって、「思い」の様々な違いというものが観えるようになれば、「思い」の世界・・・・つまり「潜像世界」へと突入していくことができるようになります。

「突入する」というのは、自分自身が「思い」で出来た「霊」となっている・・・ということです。

肉体を離れて霊体に回帰している状態です。




と、その前に、自身の霊体に回帰するためには、「思い」の観分けによって「自分の最初の思いという意思」へと回帰している必要があります。

そこへ「回帰」するというのは、その「意思」が自分の中心になっていることです。

それは「意識せずとも」そうなっている・・・ということです。

「意識」は思考です。

意思を脳で「識別」しているということですから。



自分に常にある「思い」と、別の「思い」が区別できなければ、それが「自分の意思」であると明確に信頼することなど出来ませんから。


そうして「これは自分の思いである」というものに回帰した時に、自分の霊、自分の魂へと回帰できるわけです。



それが出来て初めて「他の思い」というものが認識出来て、認識できるから潜像世界へと潜り込んで行けるわけです。

そして、識別した様々な「思い」の映像化が「霊」として出来るわけです。




私は、施術の中で「潜像世界」で今生きている人の「守護」というような霊に常に接触しますが、それが「正当な魂の系譜」の霊ではない・・・つまりは「霊懸かり」状態の人をよく観ます。

本来の「守護」よりも寄り付いた「霊」のほうが強ければ、守護を押しのけてそれが「守護」のように振舞うわけです。

それは「副守護霊」「正守護霊」「本守護神」というものがちゃんとしていないからそうなってしまうわけで・・・・・

だから生きている人が「自分の思いの根源」というものから離れてしまい、忘れてしまい、別の「思い」に動かされて行動してしまうわけです。


「別の思い」は「別の霊」とも言えます。

ゆえに「霊懸かり」であるということです。



そういう人が「魂に還った」という時、その人が「自分本来の思い」「魂」であると思っているそれは「別の思い」「別の霊」であり、もしそういう方が亡くなれば、必ず「迷子」になるでしょう。

そして、「回帰できない」方へと亡くなった方の霊は放浪し始めます。


それを、言い方を変えれば「魂を奪われた」ということになるわけです。

帰るべき場所、来た場所という霊界の故郷から観ればそうなります。


霊界とはそのような「魂の取り合い」が行われている・・・ということです。

それが霊界の「神と悪神・悪魔の戦い、戦争」というものです。

まさに「タマの取り合い」なわけです。



だから私が行っている施術というのは、それを回避するための「正当な霊・神」との「結び直し」なわけです。


一度で結び直しができる人もいれば、何度やっても再び「横道に逸れる」人もいます。

横道に逸れる「思い」に執着して、それを握って離さないためです。



そして、そうなるのは「思い」の区別、色分けが出来ず、「思い」と「思考」の区別もついていないからでしょう。

よく「心を入れ替える」と言いますが、つまりは心の中心にしている「思い」を入れ替えるということ。


そこに横槍している霊が居れば排除して入れ替えるのが私の施術の一つでもあります。




思いと思考の違いを別の言い方で現わすと、「言霊」と「言葉」ということになります。


思いは言霊

思考は言葉です


言霊を言葉に「変換」するときに、「気付き」を促すために「禅」という瞑想をするわけです。

その「気付き」が「思い」を区別するために必要なものです。


思いという言霊が言葉になってゆく過程、そして言葉になった後の姿

そこに「違い」が明確にあると「気付く」ことです。

その「気付き」を司るのが「素戔嗚神」です。


「蘇民将来」の物語は、その「気付き」の物語です。



そして、スサノオとは言霊が言葉になるための「息吹き」の神なのです。


「禅」という字は「神」に角が生えてるでしょう?






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