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【言霊ラジオ】#6 『九九理姫』~肚くくりする地引の岩戸





九九理姫




人は「思い」の真ん中に「恐れ」という「しこり」を抱えています。

それゆえ、腹をくくることが出来ません。


そして、恐れを抱えている人は、「信頼する」ということが出来ません。


信頼することが出来ないということは、自分自身が「信頼できない」ということを知っているからです。


自分は裏切る

自分は信頼に応えない

自分は助けない


自分に信が置けないから、けっして自分以外のものにも信を置けないわけです。



自分に信が置けないから、誰かの言葉に簡単に心が揺さぶられ

だから常に心は不安定


不安定だから「不安」になり

そのたびに「恐れ」という「しこり」が心の「真ん中」に居座る



そして、「恐れ」を理由にして、裏切りも無関心も正当化してゆく


そうして更に自分自身が信用できなくなる


だから誰かを、何かを「信頼」することなどけっして出来ない


「恐れ」を心の真ん中に居座らせたまま、信頼できる人間になどなれない

自分が信頼できないように、他人も信頼できないわけです。








身近な人間、そして自分自身さえ信頼できないのに、本当にいるのかいないのか「わからない」神という存在などどうして信頼できるのか?




恐れを抱えながら「神」を語る人がたくさんいます。

だが彼ら彼女らはけっして「神」という存在が「在る」などと信じてはいません。


信じていないのに信じているふりをする。


他人を信じていないのに信じているふりをするように、神を信じているふりをする。


『神はいるかもしれないが、いないかもしれない』

そんな心です。




先日の言霊ラジオの「龍について」で離したように、人は「ブレーキ」を踏みながらアクセルを踏んでいると言ったのは、そのようなことです。


「居ないかもしれない」

だから今の景色から離れられない


今の景色から離れるということの「恐れ」



今を離れて進みだしたら景色は当然変わります

その景色が「今より悪くなったらどうしよう」

そんな恐れです




今いる景色がそんなにいいなら、そこに留まる決断をすればいい。

先に進まないという決断をすればいい。


では何故それが出来ないのか?


留まっていることに不満を持っているから。

その不満は「進みたい」という欲求を「恐れ」を言い訳にして蓋をしようとして、でもけっして蓋をすることができない。


留まっていることにも「恐れ」を感じているから。




そうやって人はブレーキとアクセルを同時に踏み続けて、エネルギーを消費し続けているわけです。




一生懸命ブレーキを踏んで「留まり続けている景色」が、「留まっていられない景色」に変われば、人はあわててブレーキを放してアクセルを踏む。


災害が起きたり、状況が大きく変化したりして、そこに留まっていると「危険だ」と思うと、ようやくブレーキを放してアクセルを踏む。

そして、ようやく固定されていた景色が動き出す。


その「動き出した景色」の中で「恐れ」を手放した人は幸いである。

ブレーキを放して「進む」ということが、進むことで移り変わる景色というものの素晴らしさを知ることが出来るから。


だが、多くの人は「恐れ」を握ったまま、次に「停まるところ」という「景色」を探す。

そして、「以前と同じような景色」のところへ向かおうとする。

せっかく、違う素晴らしい景色が広がっているのに、それらの景色は目に入らない。

以前と同じような景色ばかりを探して・・・・・

そうして新しい世界の入り口を見過ごしているわけです。



そして再びブレーキとアクセルを同時に踏み続ける生活へと帰ってゆく・・・・






ブレーキとアクセルを同時に踏み続けながら「神」を語る人は多い。

そして、ブレーキとアクセルを踏み続ける人は、そういう人の言葉に「慰め」を求める。


「恐れ」を抱えたまま

「恐れ」から湧き立つ穢れを流し続けたまま

その「赦し」を求めているだけである。




世界は、世界の人々は数千年の長い間、「恐れ」に留まり続けている。

恐れから逃れるのが「善」であるという世界に生きている。

それは「恐れ」が中心の世界



かつてヤマタノオロチの大禍は、「恐れ」の暴走から始まった。

それ以来、人は「恐れ」が中心の世界に生きている。


子供の事から「恐れ」を植え付けられ、「恐れ」から「逃れる」という意識で生きている。

ブッダがあれほど語ったのは何のためだったのか?

と思えるほど彼の言葉を見ていない。


恐れに曇った目には、ブッダの言葉の「光」が映らないのだろう。




仏教によって統治を始めた聖徳太子であったが、それ以後も人は「恐れ」から逃れることを原動力として生きている。

そして、恐れ以外のところに留まろうとする。


怒りであったり、喜びであったり、悲しみであったり・・・・

恐れでなければいいと・・・・



毎日毎日、「恐れ」をたきつけられ、思い起こさせられ

怒りに浸り、喜びに浸り、悲しみに浸る。

そういう「浸る」場所を求めて彷徨う。



そんな景色に人は固執し続ける。

それは「恐れ」がシコリになるまで見て、聞いて、感じてを繰り返し続けているからである。

そのように「させられている」からである。


「恐れ」から逃れるという生物の「本能」を悪用されているからである。




恐れから逃れたいのに、恐れから目を離せない。

だから「恐れ」を見続けている。


見ている景色の中に「恐れ」が消えると、「何処に行った?」とばかりに探す。

「そこにある」とわかっていないと不安だから。

そこにその恐れがあるという安心感

回避できるという安心感


人はそこに留まり続けているのである。




留まり見続けている景色の中に、常に「恐れ」がある。

いつでも逃げられる恐れがあるという安心感。


だがそれが、「自分自身が信用できない人間」となる。

「恐れ」を言い訳にして裏切り、傷つけることを自分に赦しているからであり、だから誰も信用できない。




そんな心で「神」を追いかけられるわけもなく、そもそも信頼など出来るわけもない。

信頼できないものに「委ねる」ことなど出来ないのである。


だが、そんな心で神を語るものは多い。

そして、信頼していないことが言葉からにじみ出ている。




先ほど、災害が起きたり、状況が大きく変化したりして、その「動き出した景色」の中で「恐れ」を手放した人は幸いである・・・と言いましたが、そのような事でもない限り、人はなかなか「恐れ」の囚われからブレーキを放すことは出来ない。



それを自分の意思で行えるということ・・・

それが「肚くくり」です。




日月神示では「神の大船に乗れ」と言われています。

神を信頼し、時の流れに乗る船に乗れということです。

その船は「神風」によって操られる船。



さて、自分自身すら信頼出来ていないのに、それができるのか?

出来ないでしょう。



ブレーキを踏む足を上げて進むには「自己信頼」しなければならないのです。

誰を信じる・・・ということではなく、自分自身を自分が「信頼」できる自分にしなければならないということ。


自分より先に他人を、神を信頼することなど出来はしません。

自分が自分を信頼するに足る自分にすることが必要なのです。


それは自分というものを知る事。


人は自分すらよく知らないのです。



神とは何ぞや?

と問う前に「自分とは何ぞや?」と問うことです。

そうして自分の根本にある存在の証しである魂に辿り着いたとき・・・・


菊理姫が地引の岩戸を開いてくれるでしょう。







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