道徳と神道
- 亞空 淺田
- 7月24日
- 読了時間: 3分

道徳という言葉を調べると、GoogleAIが「道徳とは、個人や社会が守るべき価値観や行動規範のことです」と教えてくれる。
『あぁ、そうなんだ。』
と人は思うだろう。
だがこのような認識の仕方は『道』ではなく『教義』という「外国ならでは」の認識の仕方である。
「規範を守る」というのは「法律を守る」というのと同じで「この線から出てはいけません」という「規範」というもので、それは西洋的な宗教に見える「教義」という「規範」に通ずる。
だが『道徳』とは【道】である。
では【道】とは何だろうか?
【道】とは一言でいえば「守るべきもの」ではなく「正すための鏡」と言った方がいいだろう。
ことわざに「人の振り見て我が振り直せ」というものがある。
つまりは「徳」という在り方を見て、自分を正す・・・というものだ。
この『道徳』の前には『神道』というものがある。
道徳が「徳」の在り方を見て自分を正すという原点が『神道』なのである。
それは「徳」というもの自体が「【神】に照らして自らを正している時に表れる人の状態」というものを「徳」とはこうですよ・・・と言っているのである。
【神道】というものの基本は「祓い浄め」である。
これは「神様に祓い浄め」をしていただくのではなく、「神様」を照らし見て自らの心や行いを自らで「祓い浄め」するというのが基本である。
それは、心の中にある【神】を具現する『良心』という鏡に照らして、今の自分の心はどうか・・・という「祓い浄め」を、日常の中で自ら「自浄作用」を起こすというのが【道】というものである。
つまり、【神道】とは、日常の生活の中で心や行動に湧きおこる自分の「穢れ」というものを、「良心」に照らして自分の心や行動を省みて「正す」という「祓い」を実践するのが【神道】という「神と共にある道」
それを【惟神(かんながら)の道】という。
日本人ならば「神の道」というものが日常にすでに浸透しているが、外国ではそのような【道】という形式の教えは無かった。
だから「老子」は【道徳経】という「神の道を実践している人の姿」というものを『鏡』として「我が身を正す」という【道】を、当時の中国の人々に教えたのである。
道徳は【道】であって【教義】ではない。
生き方という【道】が「曲がっているのを正す」ための【鏡】なのである。
人とは「間違う」もの
だから「正して」道を外れてしまったのを修正しようというのが【道】
寄り道も遠回りも【道】に変わりはない。
そして【道】は「一つ」ではない。
外れた・・・と思っても「良心」という【神】や【徳】に照らして「正して」みても、その外れた道が「清い」道であるならば、それは「新しい道」となる。
「規範」という『境界』を作ってしまえば、そんな「新しい道」は生まれてこない。
「教義」というのは「逸脱してはならない」という「境界」がある。
だが、「道」には「逸脱」したとしても「良心」に照らして許される(穢れが無い)なら、その「逸脱」も『正しい道』なのである。
『道徳』を「知識」として学んでも、自らを「正す」という行動が無ければ意味はない。
『神道』も然り・・・である。
神を照らすと書いて「神照(かもながら)」と言う。
下賀茂神社に『糺(ただす)の森』というものがあるだろう。
それは「神を照らして糺す」ということである。
賀茂(かも)とは「神を照らす」ということ。
自分の心に「神」を照らして、自らを「糺す」という【神道】の「教え」が今も息づいている。
賀茂に祀られる『玉依姫』は、川で自らを「浄めて」いた時に『神』を宿した。
そして「宿した神」を常に照らして自らを祓い浄めて『美しく』あり続けた。
その「玉依姫」の存在を「指針」として、「鏡」として、我が身を「糺す」という【道】が『惟神の道』であると示している。
祓い浄めて自らを「糺す」ことで、玉依姫のように「美しく」在るように・・・・
賀茂の地に祀られる『玉依姫』という【鏡】に自分を映して、自らもそのように穢れを祓い浄めて「美しく」在れという・・・・・
それが【神道】であり、【道徳】というものの根幹にある『糺す(正す)』という【道】なのである。
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