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科学的根拠は時に事実を否定する

更新日:6月1日


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目の前に明確な『事実』が起こっているのに、時に人は「科学的根拠」と言う『仮想』によって『事実』を否定する。


『事実』という『現実』を『科学』という『仮想』によって「見方」を変えて『現実』を否定し『仮想現実』へと没入することが多々ある。


自分の思考に「客観性」を失った人は、それこそ「別次元」の現実を生きている。



「根拠」という言葉を使うが、それがそもそも『思考の産物』であり、手元(思考)にあるレゴパーツ(知識)で組み上げられたものでしかないという『現実』を無視しているのである。

「無視する」というのは『現実』と「照らし合わせない」ということであり、「照らし合わせる」という『客観性』が失われているということ。


とりあえず「レゴブロック」が『組みあがった』のだから『理屈は正しい』というだけの、「現実との照らし合わせ」という「根拠」そのものが無いのだが、『組みあがった』という一事をもって「根拠」としているだけである。


『理屈』という「レゴブロック」は、パーツ(知識)が全て揃っていなくても「何がしか」のカタチは組みあがるものである。

また、正面から見れば「カタチ」として成立しなくても、横から見れば「そのように見える」という「見方」で『見えた』ということを『根拠』としたりする。


そういう人は、いくら目の前に『事実』が付きつけられようと、「見方」を変えるという『仮想現実』へと逃げ込み、『現実』を「言葉」という「レゴ」で『別の姿』へと変えて、それが通用する『仮想現実』の世界で安寧を享受する。

そして、その『仮想現実』を一生懸命「共有」しようと躍起になり、その『仮想世界』を感染させてゆく。



『事実』を真っすぐ受け止めようとする人は案外少ない。


それを受け入れてしまうと「心の均衡」が保てなくなるから・・・

という言い訳で、相変わらず自身の『客観性の無さ』を認識せず、左脳の『主観』という箱庭に「許容」出来るものだけを許容して、「許容」出来ないものは排除する。


心の均衡が保てなくなる時点で、心の中に「余計なもの」がある・・・ということなのであるが、客観性を失っているため、それが「不要のもの」であるとは思わず、使わない、使えない「不要物」を後生大事にしているから「心の均衡」が崩れるわけで、だから「許容」出来ないわけで、それでも「客観性」を持てないのは、それ(不要物)を握りしめているから・・・なのである。


そんな「不要物」が混じった思考で『根拠』とする論理が形成される。

と言うか、そもそもその「不要物」でしかないものが「レゴブロック」に組み込まれていないと『根拠』と認めない・・・・という非常に主観的で感情的な『根拠』なのである。



そもそも「思考」で創造され構築されたものは「根拠」とはなり得ない。

なり得るとすればそれは『全知全能者』という「全てを知っている」者の『知識』が無ければ成立しない。

人の知識など「限られた知識」でしか無く、何が抜け落ちているかさえ「全知」を知る者でなければ知り得ないのであるから。

そんな「全てが揃っていない」レゴブロックで組み上げられる物が「絶対」たり得るわけはないのである。


だから『事実』という『現実』の接点である「感覚」との「整合性」のすり合わせが無ければならず、それが「思考」という「仮想」を制御する『客観性』なのである。




例えば「パラレルワールド」などという妄想の産物は、現実から遠く乖離した「仮想世界」でのみ通用する『理屈』である。


気の遠くなるような時間をかけて具現化された「宇宙」というものを、たった一人の人間が「時間を超える」というたった一事のみで「宇宙創造」が行われてしまうと言う・・・・

一人の人間の力は、もはや『神』など圧倒的に凌駕してしまったような「理屈」である。

人間一人にそのような力が備わっているなら、何も時間を超えなくとも「世界創造」くらい容易いわけである。

『時間を超えた』という一事のみで瞬時に「宇宙全部」を創造してしまえるなら、世界の歪みなどいとも簡単に変更させられるだろう。


そういう人は決まって「現実は仮想」などという。

スピリチュアルに多い「妄想」である。


そもそも「思考世界」が「仮想」なのであるから、思考の中では全ては『仮想現実』である。

だがそれは『思考の中』なのである。

「現実世界」ではない。



『本能寺の変』で燃え盛る本能寺内で座禅を組んだ僧侶たちが言った言葉とされる『心頭滅却すれば火もまた涼し』とは、『仮想現実』に没入するということそのものだ。

その『没入』により『感覚』を支配しようとする『禅』の、ある意味「歪んだ」世界観であろう。

だがそれは『感覚』を支配しようとしているだけであって『燃え盛る本能寺』の火は消せない。

ただ単に「左脳が右脳を騙す」という行為を行っているだけである。


そう、『騙して』いるのである。

だから「歪んだ」世界観なのである。


『燃え盛る本能寺』という事実は変わらず、『火は熱い』という事実も変わらず、『焼け死ぬ』という事実も変わらない。

自分に降りかかる『現実』を回避するために、『本能寺から脱出する』という『現実的選択』を排除して『仮想世界へ逃げ込む』という選択をしたわけである。


これを『禅』などと言うならば、ブッダはあきれ返ることだろう。



ブッダが語ったのは『事実はこうである』という『事実認識』であるが、そこに到達できず、だから思考によって見方を変えた『仮想現実』によって「到達したこと」にすることで『成し得る』とした『歪み』そのものの末路・・・・とでも言うべきか。



そのような『精神的支柱』を土台にしてしまった日本人は、長い年月をかけて『仮想世界』という『箱庭』を構築することを「善し」とする『根』を育んでしまった。


だから多くの人が思考で生み出されたレゴブロックの「仮想現実」を「現実」とする『癖』がついている。

いや、日本人だけではなく世界中がそのような土台を『根拠』としているのである。




右脳で得た「感覚」を『客観視』するのは左脳の「論理」である。

だが、構築された「論理」を再び「感覚」で『客観視』しなければ『現実』との整合性は取れない。

「論理」という『レゴブロック』が完成したからそれで終わり・・・・ではない。

「答え合わせ」をしなければならないのである。


1.右脳で感受した「感覚」は、左脳に「問い」として出題される。

2.それを左脳が「解く」。

3.そして、「解いた」答えが「感受」したものに照らし合わせて「合っているか?」という『整合性』を左脳から右脳へ「問う」。

4.合っていれば「正解」と右脳は答え、外れていれば「間違いだからやり直し」を要求する。

5.2~4を繰り返す。


それが『現実認識』の『機序』というものだ。

だが多くの人は3.と4.を蔑ろにする。

そして、3.の段階で「左脳が右脳を騙す」ということを行う。

これが「心頭滅却すれば火もまた涼し」というものと『同じ』なのである。




自分で自分を『騙して』いるのではないか?

その『騙している』ところの根底にあるものが「不要物」なのである。

「焼け死ぬ」「熱い」「火は消せない」という『事実』から目をそらして『仮想世界』へ没入し「右脳を騙す」ことに専念した僧侶たちのように、『目をそらしたい事実』という「不要物」を抱えているのではないか?


『仮想世界』に没入する時点で、人は「不要物」を抱えているのである。

そして、『自分を騙して』いるのである。



ブッダは『自分を騙す』などという教えは残してはいない。

事実を「在るがまま」受け入れるよう教えている。


自分が生み出した「仮想世界」を「共有」することが『以心伝心』ではない。

事実をありのまま「感受」することが『同じ』であるとき『以心伝心』するのである。

「事実」という『同じ軸』を共有するから心が伝わる。

それは「同じものを見ている」という『軸』である。


「仮想世界」は『自分を騙す』ために生み出される。

だがそれは、人それぞれ「理由(騙す理由)」は違う。

違うのだから「軸」は一致せず、だから『同じもの』は見ていない。

ただ「見方」の方向を一致させようとしているだけのことで、それすら『仮想』なのである。




人が「科学的根拠」などという言葉を使う時、『事実』を根拠にしているのか、それとも『見方』を根拠にしているのか。

それだけで「科学的根拠」という言葉は全くの『別物』の意味を持つ。

科学に限らず「根拠」という言葉を使う時、その根拠は「どちらか」に寄っているものである。

その「寄っている」方向を見れば「信ずる」に足るかどうかはすぐわかる。



事実を追うための「科学」か?

それとも『騙す』ための「科学」か?


思考の「答え合わせ」をしない人が陥ってしまう「詐術」である。






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