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アロマをやればやるほどに、香りというものから離れて行く

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相変わらず湯船に浸かると「書く」という行動へ誘(いざな)われる。


うっかり心を無にしてしまうと、即座に「導き」の言霊が湧いて来る。


のんびり音楽でも聴きながら静かに湯船に浸かろうと思っていたのに、普段ほったらかしにしているせいか『ここぞ!』とばかり語りかけてくる。


音楽を流しているスマホを見ると「4:44」


「はいはい、わかりました。」


さっさと入浴を済ませてこれを書いている次第である。




余談はこれくらいにして・・・・


今の「梅雨」の時期には湯船に数滴「レモングラス」を垂らす。


じめじめした熱帯地域に生息するイネ科の水耕植物であるが、だからこそ日本の梅雨時にはいい。


梅雨の時期というのは「五行説」では「脾臓」にあたる季節。

「脾」は四季の中の「土用」を司っているが、梅雨の時期も「脾」の管轄となる。


これから暑さが増してくる時期であり、一年で一番湿気の多い時期でもある。

「脾」は「水穀」を司るものであり、「水穀」とは「呑んだり食べたりして栄養を補給する」ということである。


東南アジアの料理にもよく使われる「レモングラス」は言わば「食を増進させる」というものである。

蒸し暑い時、人は食欲が落ちやすくなる。

何故かというと「むくみやすい」からであり、特に「内臓がむくむ」から食欲が落ちるということも密接に繋がっている。


湿気というものを人は「肌」から吸収する。

だからむくみやすくなるわけだ。


そして「肌」も「脾」の管轄である。



そんな湿気の多い蒸し暑い時期に「食欲」を湧かせることは生物の生命維持にとって重要な事であり、だから「水の中」から葉を茂らせてゆく「レモングラス」の生命力を担う「成分」が「いい香り」となり、イネ科の植物という性質も相まって「食欲をそそる」香りとなる。


夏の蒸し暑い食欲のない時に、目の前にレモングラスの入った冷たいフォーの料理が出てきたら、少なからず食指が動く。

レモングラスとはそのような香りなのである。



だが、東南アジアの料理に使われるハーブはレモングラスだけではない。

パクチーなんかも良く使われる。


だがパクチーを「食欲がそそる香り」と思える人は少ないだろう。

だがパクチーも一緒に食す方が良い。


特に蒸し暑い時期なんかは「滋養」となるハーブである。


私はパクチーの香りを嗅ぐたびに「沼に半分顔を埋めたカエル」の気分になる。

だからけっして食欲はそそられず、なんなら食欲減退しそうである。


そんな香りを包み隠すのがレモングラスの香りであり、シトラスを思わせる「酸味」の成分が「気」を充実させてくれる。

つまりは「気の減退」によって食欲が落ちたところに「気つけ」を行ってくれるというわけだ。



パクチーは「苦味」であり「酸味」を得ることで身体は「苦味」を受け入れるようになる。


陰陽五行の「木(気)・酸味」から「火・苦味」という『巡り』が自然と起こるからだ。


つまりは、レモングラスの香りを嗅ぐことで、パクチーの香りはそれほど「嫌なもの」ではなくなるという現象が勝手に起きる。



食は「舌」だけで味わうものではない。

見た目、香りからすでに「食」は始まっているということだ。




アロマのブレンドというのも、概ねこのような考えのもとから行っている。


以前に「アロマブレンドは愛情料理」という記事を書いたが、ただ香りを混ぜればいいわけではなく、成分を混ぜればいいわけでもない。

巡りを知り、季節を知り、状況を知り・・・・


風邪をひいて熱がある時は暖かい「おかゆ」を出すように、その時々の状況に合わせて「減退」した生命力を回復させるために「巡り」を取り戻すということを念頭に行うものだ。



そして、ブレンドには「トップノート」「ミドルノート」「ベースノート」などという概念があるが、それは先に書いた「レモングラスとパクチー」の関係のようなものである。


「ベースノート」に使う香りは「いい香り」と瞬時に思いかねる香りのものも多い。

また、ベースノートは「到達点」であり、そこへどのように「巡らせるか」という考えが先にある。

そして「どこから巡りを始めるか」というのが「トップノート」である。


一番最初に香る強めの「いい香り」と思える香り・・・・


それがトップノートの役割となる。



別の言い方をするなら「りんご飴」のようなものでもある。


ベースノートやミドルノートを「包む」香りであり、最初に到達する香りとなるものだ。




りんご飴を食べる場面というのはどういうものなのか?


お祭りでよく見かけるそれは、未だに健在で愛されている。


どちらかというと「食欲」で食べるものではなく「嗜好品」であるりんご飴は、最初に来る「甘味」が求められている。

それと「見た目」という要素も同時に存在する。


男というものが率先して選ばないりんご飴は、多くは女性が好むもの。


浴衣を着てお祭りに来た女性がりんご飴の「甘味」を摂れば、「オキシトシン」が放出されて、より可愛くなることだろう。

浴衣姿でりんご飴を持っている絵と相まって、相乗効果というものが発生する。


さらに甘味の後に来るリンゴの酸味は「疲れ」を癒してくれる。

暑い夏まつりで浴衣を纏う暑さで身体が参るのを防いでくれる。


オシャレは我慢とはよく言ったもので、女性は我慢することが多い。

男性にはそういった我慢というものが出来にくいのである。



この場合、巡りは「甘味」から「酸味」へと移行するわけであるが、りんごの味は複雑で一概に「酸味」とも言えないところがある。

それでも「りんご酢」というものが出てくるくらいであるからベースはやはり「酸味」である。


さて、お祭りにきて「りんご飴」だけということはないだろう。

「甘味」を摂れば次に欲しくなるのは「辛味」である。


そして次は「鹹味(かんみ)」である。


「鹹味」とはいわば「塩味」のような「しょっぱい味」ということだ。


祭の屋台を見れば「辛味」と「鹹味」が入り混じった味の濃いそのようなものがワンサカ並んでいる。

どれを食べてもいい。


少しかじっただけのりんご飴を片手に、たこ焼きか焼きそばかイカ焼きかサザエのつぼ焼きか・・・・

何でもいい。


そんなものを食べたくなっているだろう。


そして、そんなものを食べた後、口直しにとりんご飴の「りんご部分」をかじる。


「土」から「金」「水」「木」へとみごとに「巡り」は完成する。


あとはお茶かコーヒーで「苦味」を摂れば完成である。



そして再び「甘味」へと戻る。


オキシトシンは更に発動され、可愛さを増してゆくのだろう・・・・・






香りの話が「味覚」の話になってしまったが、要は同じことである。


香りというのも食と同じく「成分接種」である。

ただ「いい香り」というだけではないということ。


香りに含まれる「成分」によって心身の『巡り』を正して流れるようにするものが本当に「いい香り」なのだ。



アロマをやればやるほどに、その中にある「成分」というものがよくわかるようになる。

すると、安易に香りを漂わせることを敬遠するようになってくるわけだ。


それは、いちいち成分を考えてのことではなく「わかってしまう」からというだけのこと。



「いい香り」という「嗜好」と、成分の良さという「知識」で「時と場合を考えない」香りを漂わせるということを自然と「避ける」ようになる。


「これは浄化の香り」といって「いつでも浄化」できるというわけではない。

時と場所がハマれば・・・ということ。


梅雨の時期にレモングラスは効果的であるが、冬の時期も同じかというとそうではない。

「食欲増進作用」があると言われるレモングラスは「熱帯地域のような気候の状況」でこそその力を発揮するわけで、「甘味」が欲しくなるような季節や状況では「食欲増進作用」は薄れるわけである。



ラヴェンダーやカモミールなどの「鎮静作用」も同じである。

状況によって効果が現れたり現れなかったりする。


ズレた香りを嗅ぎ続けていれば、かえってそこに「居付く」こととなり、巡りが失われる場合も多いということになる。




ここ数年で「柔軟剤」の香りは強さを増し続けている。

おそらく使っている人はそうは感じていないのだろう。


多くの柔軟剤は香りの中に「甘さ」を漂わせている。

それがどういうことか?


常に香りの「甘さ」を求めるというのは「砂糖」を求めて甘い菓子をついつい「食べてしまう」状況と同じなのである。


多くの人が今のように強い「甘い香り」を纏わせ始めたのはいつごろからか?

コロナ禍からそれは急速に増えた。

そして年々強くなっている。



香りとはいわば「成分」であり、アロマをやればやるほどそれを意識するようになる。


それだけに、柔軟剤の香りが充満する場所というものがどういう意味を持つのか?

多くの人は「柔軟剤の成分」を接種しているなどとは思っていないだろう。


しかし、アロマをやってきた者にとっては「成分吸収」するということが嫌でもわかる。

身体が反応するからだ。



恐らく、大概の人は柔軟剤の「トップノート」の「甘さ」や「華やかさ」だけ嗅ぎ分けているのだろう。

だが、敏感な人はその奥にある「ベースノート」まで嗅ぎ分ける。


そこにある「ケミカル」な成分が「体に吸収される」ということまで理解する人もいる。




香りや味にそのような「奥行き」というものがあるのと同じように、「映像」にもそれがあり、「言葉」にもそれがある。


トップノートという「表層」の中にある次の層、また次の層・・・・というように、資格が捉える一つのものの「奥行き」というものまで見え、言葉の表層(表現)の奥にある「別の意図」という奥行きも「感覚」としてわかるのである。




普段、アロマから離れている方が、使った時の効果は大きい。

要は「香りの断食」のようなものであろうか・・・

断食とまではいかないが、食と同じで「断食」した後に口にしたものというのは、ただの水でさえ「複雑な味」に感じるのである。


アロマの香りを漂わせ続けることは、ずっと食べ続けているのと同じで、舌がバカになるように鼻がバカになる。


だから柔軟剤の香りが年々強烈になっているのはそういうことなのだ。




この数年で「感覚」が鈍っていった人と鋭くなっていった人は明確に分かれた。

そして、時間の経過とともにその距離は離れているわけである。



都会で・・・・

人と「接し過ぎて」いる人は、人というものの「奥行き」に関して「鈍く」なっている。

人間一人ひとりの「違い」というものが見えにくくなり、「均一化」されたものと捉えだす。

香りの「トップノート」ぐらいしかわからない鼻のように、人の言葉も「表層」に意識の大半が割かれ、だから「より刺激的な言葉」でないと「感じない」ようになるわけだ。


人の発する言葉が年々「刺激」のある「強い」言葉になっているのもそのためである。

だが、多くの人は「鈍っている」ということに気付いていない。

柔軟剤の香りが「強くなっている」ということに気付かないように・・・・・



スマホやネットで映像を見続け、言葉を見続け、聞き続け・・・・

常に何かを「食べている」人がメタボになっているように、様々な感覚が「メタボ」状態となり、より鈍くなっているのであるが、見た目に現れないからわからない。


しかし、見る人が見ればそれは一目瞭然のことなのだ。




断食をすれば「ただの水」さえ奥深い複雑な味わいであることがわかるように、人というものから離れれば離れるほど「人」という存在の複雑さや奥行きが見えてくる。


アロマをやればやるほどに、香りというものから離れてゆく・・・ということである。



やっとタイトル回収できた。

長かった・・・・




この「二分した」人の「感覚」というものが、今後さらに加速してゆく。


見た目も、言葉も、香りも、存在の在り方も、先に挙げた「料理」と何ら変わることはない。


微細な素材の味わいを堪能できる人と、濃い味付けでしか食べた気がしない人・・・というように、その人が「選んでいる」ものを見ればすべてがわかる人と、全くわからない人・・・・・


その格差が広がってゆくばかりとなってしまうだろう。







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