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【言霊ラジオ】#3 『言霊とは?』~天の岩戸を開くとき








言霊




言霊とは

言葉になる手前の思い


思いが心に湧いて、それを言語化することで言葉になる


そして、思いが凝れば念となり、潜像世界で具現化されて霊となる

霊と言っても人の姿をしているわけではなく、思いそのものの姿が潜像界で現れているということです。



人が「思い」を発するのは、何かを見たり聞いたり体験したり・・・といった外的要因に対する「感受」という反応が人の思いです。


ブッダが言った受想行識そのものです。

外的刺激を受けて思いが発生し、思いを識別する行動をする

それが「言語化」という行動であったり、身体反応という反射であったり・・・


思いを言語化して思考し行動する

行動して再び感受して思考し行動する


これが人の「思い」から発する行動です。




ですが、言霊とは「自分の想い」だけではありません。


心という領域に「感応」する自分以外の思いもあります。

それはいくつもいくつも・・・

人が思っているよりもたくさんの「自分以外の思い」というものが自分の心に感応しています。



親しい人

近くにいる人

見て、聞いてその人のことをなにがしか思ったなら、その思いは思った人の心へと飛んでいくことがあります。

思いが強ければ強いほど飛んでいきます。


そして、思いが強ければ強いほどその思いは潜像界で具現化されます。

それを「生霊」と言います。



ここで「生霊」についてもう少し・・・


人は生きている時点ですでに「霊体」を持っています。

潜像界の姿と言っていいものです。

それも「生霊」であります。


先ほど「思い」が飛んでいくと言いました。

その時に本体の「霊体」も飛んでいく時があります。

よほど強い「念」があるのでしょう。





また、人には必ずと言っていいほど「自分以外」の霊が常に寄り添っています。

一体の人もいれば二体、三体、四体・・・・

複数体の霊が寄り添っている場合もあります。


それらの寄り添っている霊の「思い」も「言霊」として心に湧いてきます。

ですが人はそれは自分の「思い」と思っていることでしょう。


それを「守護」と言う人もいるでしょう。

「導き」と言う人もいるでしょう。


但し、それらの導きのようなものが常に正しい・・・というわけではありません。


あなたの魂本来の目的をサポートするものもあるでしょう。

ですが、逆に邪魔をしたり横道へと逸らせるものも多々あります。

ただ単に思いを「伝えた」だけであるかもしれませんが、それが「伝えられた」ものだとわからずに、人はそれが自分の思いなのだと思ってしまうわけです。


自分の受想行識から発した思いと、横から入ってきた思い・・・

その違いがわかりますか?



その「違い」を識別するのが「審神者する」というものです。


審神者とは「識別」です。

言霊を識別するのが審神者の役目。


昔、神社で巫女が言霊を賜った・・・という場合に、その言霊が「いかなるものか」というのを識別するのが審神者の役目です。



ですが、これは本来「自分で」行わなければならないものです。

昔、神社で神の御言を降ろした巫女の言葉を、審神者という第三者が識別していたのは、それがそのまま政治統治に関わるから、念には念を入れて認識しようとしていたということです。


本来は自分一人ですることです。


言霊を感知するのが「天照大御神」

審神者という識別をするのが「月読命」

そして正邪を嗅ぎ分けるのが「素戔嗚命」


神話というカタチでそれを教え伝えているわけです。


そして感知、識別、正邪の判断が出来れば、「言霊」という自分の心に湧く「思い」そのものがわかるというわけです。





また、死霊というものも当然「思い」があります。

地縛霊や憑依霊などというものもあります。


いわば「迷子」となった霊ですね。


こういった霊の「思い」も心に湧きます。

その感化が強い時に「憑依」された・・・というわけですね。



身体がある時は身体という「宿り木」に宿っているから存在しているのですが、その身体が失われ「宿り木」という依り代を無くして「迷っている霊」ということです。


依り代とは「あなたがあなたである」ための軸です。


肉体が生きている間は肉体が依り代です。

そして、肉体があるからできる「三次元」という世界に干渉するのが目的なわけです。


この目的については離し始めれば膨大になるのでここでは単に「三次元に干渉するために生まれた」という事と「だから肉体が依り代となっている」ということだけ理解してください。



そして、死ぬとその依り代を失うわけです。


ですが最初の方に言ったように、人には必ず寄り添っている霊が居ると・・・


それらの霊は、では一体何を依り代に、何を軸にしているのか・・・・



例えば、あなたは日本の何処どこという地域の何という一族の中のどのような家族に所属しているか・・・ということがあります。

何処で暮らし、何処で働き、どのような人と関わっているか・・・


それらはあなたという存在を「補完」し合う存在です。

自分の存在が認識され、また誰かの存在を認識するという・・・・

つまりは「思い」というエネルギーが発生されます。

それがつまりは「依り代」となるわけです。


「霊」という存在の依り代はそのようなものです。


「神」を思えば思うほどにその「神様」はエネルギーが補充されます。

それと同じですね。



ここ、非常に大事なので覚えておいてください。




あなたがこの世に生まれたのは、ある意味「託された」ことがあるわけです。

相互補完している霊的存在たちから・・・・ということです。


そして託された役割への「意思」が「魂」というわけです。

それは相互補完し合う霊たちの共通の意思。


だから「守護」されるのです。


そして、道を正すために「導き」というかたちで「言霊」を送ってくる・・・

それを人は「思い」として言語化し思考し行動へと転化する。

そうして「役割」を果たしてゆく・・・・というわけです。



守護する霊も人に憑依します。

肉体に入れ替わっているときも多々あります。

入れ替わっている・・・というよりは「受け入れている」と言った方がいいでしょう。

つまりは「肉体に自分と守護の霊が同時に重なる」わけですね。

そんな時、あなたの肉体や脳は「誰が」使っているのでしょうか?


あなたという霊ですか?

それとも守護霊ですか?



時間と記憶の連続が「自分」であると思っているなら、それは「自分」という存在は「肉体である」という時の「自分」ということです。

霊の自分は「誰か」という別の霊を受容し肉体使用を容認しているということです。



それがわかるようになるということが「岩戸が開く」ということです。

天照大御神が岩戸から現れて、その違いをまざまざと知る・・・・

それが天の岩戸開き


この「言霊」は「誰誰だ」という「違い」がわかるわけです。


そして、感受した言霊をちゃんと識別して言語化するのが「月読命」

天照大御神という「太陽」が岩戸から現れなければ月は照り輝くことはないのです。


そして、識別し言語化し思考した結果、行動すか否かの正邪を判断するのが「素戔嗚命」

つまり「この世に示現する」という行為の判断を「正邪を嗅ぎ分けて行う」ということです。







言霊から話がそれてしまったようですが、言霊とはそれほど人間にとって重要な要素なのです。


思いの霊(玉)を言語化できるのは人間だけです。

だから霊長類のあるじなわけです。



たとえば、動物たちは言霊という「思い」を言語化せずに行動します。

つまりは出来ることが限られる・・・ということです。



この言霊が識別出来れば、いかに多くの霊たちが「思い」を託してこようとしているか・・・ということがよくわかります。



「思い」を識別する

そして「言霊」を認識する。

それが、天の岩戸を開くということです。


それらは神道の中にもあり、修験道の中にもあり、禅の中にもあります。

それらの師とされる人たちは等しく「言霊」を理解していました。


ですが、教えれば教えるほど人は迷子になっていきます。

でも教えないと理解できない。


ジレンマですね。






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