【言霊ラジオ】#2 『次元上昇』~次元上昇とは?
- 亞空 淺田
- 2 日前
- 読了時間: 11分
次元上昇
次元上昇という言葉が語られて、すでに何年も経っています。
そんな「次元上昇」について少し話してみたいと思います。
前回、「心の世界」という回において「次元」というものがどういうものか簡単にお話しました。
心という潜像世界の先に広がる次元というものをお話したと思います。
まだ聞いていない方はそちらの方も聞いてくださいね。
まず、最初に「次元上昇」という言葉です。
この言葉の「立ち位置」というものはいったい何処なのでしょうか?
当然、ここ 三次元という次元が立ち位置としてこの言葉が使われているのでしょう。
「上昇」という言葉が使われていますが、では、立ち位置である「三次元」が上昇するのでしょうか?
三次元が上昇して「四次元」になるのでしょうか?
では聞きます。
四次元は上昇しないのでしょうか?
五次元は?六次元は?七次元は?
それぞれ上昇するのでしょうか、それともしないのでしょうか?
ここ「三次元」だけが上昇する・・・
それは「摂理」というものに合っていないのではないでしょうか?
「摂理」というものから見れば、全ての次元が上昇するはずです。
恐らく、そのようなことは考えずに「次元上昇」という言葉は語られたのでしょう。
「ここ」の世界、物質化次元の世界が「上昇する」という主観で語られた言葉なのでしょう。
つまり、その主観は「私は物質である」という主観です。
そして多くの人もたぶんそのように思って語っていることでしょう。
では聞きます。
あなたは物質なのですか?
先ほど「物質次元」という言葉を使いましたが、このような「言葉」が認識を誤らせてしまいます。
そもそも「人間」という存在の「立ち位置」がどこにあるのか?
ということがとても大事になってきます。
前回、人間は「縦糸」と「横糸」が「交わる」ところに存在していると言いました。
先祖から連綿と続く「血統」という横糸と、神から連綿と続く「霊統」の縦糸の交叉するところに存在していると・・・・
つまり「人間」というのは「物質」としての人間と「霊」として人間の「交点」
つまり「交わるところ」に存在しているわけです。
物質という次元に降り立っている霊・・・・
人間という肉体である物質の次元に降り立っている霊・・・・
それが人間という存在です。
霊体という潜像世界の身体と、肉体という現象世界の身体の「両方」を持っている・・・・
それが人間というものです。
そうなると「自分」というものの「立ち位置」は肉体なのか霊体なのか・・・という話になってきます。
当然多くの人は「肉体」を立ち位置として物事を見て、考えているでしょう。
私もそうでした。
ですが、実際は「どちらが自分の主たる立ち位置か?」
ということを考えなければいけません。
ここで話は少し戻りますが、先ほど「物質次元」という言葉が認識を誤らせていると言いました。
たしかに「物質の次元」というものではあるのですが、人間という立場は「そこ」にあるのではないということです。
「物質」というものは、一見「ただそこにある」ように見えますが、それは「ただある」のではなくて、「具現」されている・・・ということです。
そのように在るように「具現」されているということです。
つまりは「摂理」という意思によって形作られて「物質」としてカタチを成している・・・ということです。
人間という「肉体」は、摂理によってそのように在るように形作られている。
では「摂理」はどのように在らしめようとして形作っているのでしょうか?
人間は縦糸と横糸の交わる「交点」に存在しているものです。
つまり物質を「具現化する」という立ち位置が人間というものの主たる立ち位置となります。
霊体の方でもなく、肉体の方でもなく、その「交わっている」というところが「人間」の立ち位置ということです。
イエスキリストは十字をきっていますね。
縦糸と横糸の「交わり」をちゃんと示しています。
それが人間の立ち位置であると・・・・・
さて、次元上昇に戻りましょう。
先ほども言いましたが「次元上昇」という言葉が認識を歪めます。
この言葉自体が「肉体」という物質次元主体の言葉だからです。
だから三次元という物質次元が四次元、五次元のように「変わっていく」などという間違った認識を起こさせてしまうのですね。
三次元の物質はあくまでも三次元です。
四次元のようになればそれはもはや三次元ではなく四次元です。
それはもはや物質ではありません。
いや、言い方を変えましょう。
三次元物質ではない・・・と言った方がいいでしょう。
次元上昇という言い方をしていますが、実際のところそれは肉体から見た主観であり、実際の人間の立ち位置から見た言葉ではありません。
人間の立ち位置から見た言葉で言うならば「具現化が早い」という言葉が最も適しているでしょう。
人間という立ち位置は、物質を「具現化」するという立ち位置にあるからです。
霊体と肉体の交点に存在しているのは、物質具現化をするもっとも理想的な立ち位置に立っている・・・ということです。
ですが、この「交点」に立っている・・・・という立ち位置についても、やはり人は「肉体側」に意識が傾いて立っています。
自分の肉体に霊が宿っている・・・・
その認識は自分の「肉体」が主体となっている考えです。
その立ち位置から考えると、やはり見誤りまってしまいます。
それは「横糸」が主体となっているということになるからです。
いいですか
物質とは「具現化」されて「物質」としてカタチ作られているわけです。
言い方を変えるなら「具現化されなければ物質はカタチ作られない」ということです。
肉体という物質は「具現化」されているもの・・・ということです。
何の摂理によって具現化されているのですか?
「人間はこうである」という摂理があるから実体として具現化しているのです。
そして「人間とはこうである」の摂理は「縦糸と横糸の交点」であるという摂理です。
その摂理によって「具現化」が起こって人間という肉体が生まれているわけです。
摂理の前に「人間があった」などということは摂理から反しているということです。
つまりは「肉体は後」ということです。
霊体が物質次元に具現する存在として人間という生物が具現したということ。
それが人間というものの摂理に則った立ち位置なわけです。
ちょっとくどいほどに立ち位置というものを明確にしましたが、立ち位置によって見え方は変わってしまい、だから言葉も立ち位置によって違ってしまうからです。
肉体を主体として見るのは間違いです。
だからといって霊体を主体として見るのもちょっと違うのです。
人間の主体とは霊体と肉体の「交点」であり、摂理としては潜像界から物質界への具現化であるということです。
「交点」という交わりの場所にあるけど、潜像世界が具現して物質化するという順序があるということです。
つまりは「物質世界に具現化する霊」が人間であるというわけです。
それができるのは「肉体」があるから・・・・
だから物質世界に「直接干渉できる霊」ということです。
この「干渉」というところが肝です。
「神」という存在は「摂理」そのものです。
神は「摂理」としてこの物質世界に干渉しています。
ですがその摂理はベースとしての理(ことわり)での干渉です。
そこから一歩踏み込んで「干渉」できるのが人間という存在です。
そういう存在を生むために、神は長い年月をかけて潜像世界と物質世界の「交点」に立てる存在を生み出した。
縦糸の先にようやくそういう存在を生んだということです。
何度も何度も「具現化」を繰り返し、ようやく今のような「人間」という肉体と霊体の「交点」に立つ「我が子」が生まれたわけです。
生まれてしばらくは「縦糸」を通して物質世界に「干渉」していました。
ですが、時間の経過とともにこの「縦糸」の意思疎通が途切れてしまい、横糸の世界に人間は閉じ込められるような感じになったわけです。
閉じ込められたようになっているのは、肉体に宿ると「縦糸」との交信が途切れてしまうということが起こってしまったということです。
宿る際には繋がっているのに、宿った途端に「縦糸」との繋がりが途絶えてしまう・・・・
なぜそのようなことが起こってしまったのか?
それは物質次元との「距離」 が離れてしまった・・・・
ということです。
これが神話でいうところの「岩戸閉め」というものです。
縦糸と繋がっていた連絡路が閉じられた・・・・
それも一つではなくいくつも・・・・段階を経て閉じられていったわけです。
だから「距離」が離れてしまったということになるわけですね。
そして人は「横糸」という立ち位置が主体となり、縦糸のことを忘れてしまったわけです。
そんな状態が何千年も続き、その間にいくつも岩戸は閉じられ、縦糸の上からいくら交信しても連絡が取れなくなっていった。
すると、人は横糸のみの意識で「具現化」を行ってゆく。
そうして今現在に至っているという状況なわけです。
そして「次元上昇」というものが出てくるわけです。
次元上昇とは「途切れた縦糸」という「次元の糸」の『距離が縮まる』ということです。
これを三次元側の立ち位置から見れば確かに「上昇」という言葉になりますが、実際は「次元の距離が縮まる」というものであり、それは物質的な距離ではなく「途切れたものが再び繋がってゆく」という過程の現象なわけです。
別の言い方をするなら「閉じた岩戸が開いてゆく」過程とも言えます。
じゃあ、勝手に距離が縮まり、岩戸が開いて神と勝手に繋がっていくのか?
と言うと、そんな簡単なものではありません。
実際、岩戸を塞いでいるのは「人の意識」です。
潜像界というのは「意識」の世界でもあります。
つまり霊の世界ですね。
では、あなたという霊は何をもってカタチ作られているのでしょうか?
それはあなた自身の意識です。
あなたという意識が「肉体」というもを主体にしていれば、潜像界の霊はそのように存在します。
縦糸が途切れたままの状態を常の状態として意識されているなら、それは「途切れたまま」の霊体がそこに存在するだけです。
あなた自身の意識が明確に変わらなければ、潜像界のあなたという霊は今までと何ら変わりありません。
たとえ距離が近くなったとしても、岩戸が塞がり途切れたままでは、そのままの在り方が現出しているだけです。
ただ、距離が近くなったことで縦糸の先にある存在が「近づいて」いることも確かです。
そして、なんとか縦糸を取り戻そうと、あなたの意識の扉をノックし続けていることでしょう。
さて、ここで問題となることがあります。
「距離」が近づいている・・・・ということは、何も「神」と呼ばれる存在の距離が近づいているだけではありません。
潜像世界に存在する「様々な存在」が近づいているということでもあります。
前回の「心の世界」でもお伝えしたように、心という「窓」のまわりには様々な存在が居るのだと言いました。
霊といい、妖といい、神といい・・・・
そんな様々なものが「近くにいる」ということです。
そして、あなたの意識の扉をノックしているのは、縦糸で繋がる「守護」という存在だけでなく、周辺にいる様々なものたちおも「ノックしている」ということです。
なぜなら「近くなったから」です。
ノックされて扉を開けてみたら、そこに「何が」立っているのか?
それが「どういう存在か」ということを見分けられますか?
いままで途切れていたのです。
すべてが新鮮な状態です。
もしそれが「神」と名乗ったとして、はたして本当にそうですか?
と、それほど人は何もわかっていない状態で「次元上昇」というものを迎えているということです。
「次元上昇」しているのだから、みんなが高度な存在になってゆく・・・・
果たしてそうでしょうか?
潜像界には天国のようなところもあれば地獄のようなところも存在します。
そして、どちらも「上の次元」というものです。
天国だけではないですよ。
扉を開いて繋がりを持ったものが「何なのか?」
それ次第で人は真逆の存在となります。
潜像界というものは混沌とした世界です。
だからこの次元、三次元も一時は「混沌」としたカオスのようになります。
そしてそれはもうすでに現出しています。
人間とは潜像界と物質化の交点に立って「具現化」をするという存在です
今までは縦糸が途切れていることを前提に具現化がなされてきました。
しかし、次元の距離が縮まったことにより、潜像化の意思が現れやすくなってきているということです。
そして、交点に立つ人間が潜像界の「何の意思」を具現化しようとするのか?
人それぞれ「繋がっている」ものが違うのです。
皆一様に縦糸と密接につながることができれば良いのですが、それはそう簡単にはいきません。
それは、横糸の意識だけの自分というものを手放せないからです。
気付いてもいなければそもそも手放すという意識も起こりません。
ですが、確実に「潜像界」の「干渉」はどんどん強まっているわけです。
「そんなものない。自分の意思ですべて決定している」
そう思っているのは「縦糸」というものを、潜像界というものを知らないからです。
そして「自分」という存在そのものを知らないからです。
次元上昇という言葉は、立ち位置を肉体に固定してしまいます。
実際は「距離の短縮」であり「干渉拡大」とでも言いましょうか・・・
そして「何に干渉」されて「何を具現化」しているのか?
ということを人は知らねばならないのです。
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