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【健康バカ】にならない生き方

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私はお酒は飲まないが、タバコは吸う人間である。

お酒は単に「好きではない」から飲まないだけであり、タバコは「止める気がない」から吸い続けている。


タバコが「良いか悪いか」という質問は、はっきりいって『愚問』だと思っている。

お酒にしてもそうだ。


神棚にはせっせとお神酒を捧げているわけで、今さらそれを「否定」してどうなる?と思う。




タバコは私にとって「アドレナリン」「ドーパミン」を鎮静させる手段」でもある。

タバコを吸わなければアドレナリンやドーパミンが活性して、ずっと頭の中が回転し続け「脳が休まらない」状態が続き、エネルギー不足が引き起こされる。


特に「施術後」はそれが顕著に現れる。

施術で「感受」をフル回転させるだけでドーパミンは溢れ出す。

その上さらに意識を「次元の向こう側」へ移行させるのに、アドレナリン、ドーパミンを溢れさせ、体中にエネルギーを巡らせて、その燃料で「向こう側」へ飛んでいく。


施術が終わってもその名残は継続し、だから「鎮める」ためにタバコを必ず吸う。

それをしなければ「エンジンを回しっぱなし」の状態が続くため、身体の「燃料切れ」をすぐに引き起こしてしまうからだ。


タバコを吸わないほうが「健康」であるとは一概に言えないのである。

そして「健康云々」以前に「健全性」が失われる。


アドレナリンやドーパミンが「溢れっぱなし」の状態が続き、エネルギー切れを起こせば、「気」というものが失われ、様々な支障が出てくる。

気分は鬱々とし、身体の気力も失われるため「行動」に制限がかかるから、「引きこもり状態」へと突入してしまう。


ただでさえ普段から人の数倍「気付く」という脳や気のエネルギーが人の数倍「常に放たれている」という状態であり、だからタバコをやめればエネルギーを補給し続けるために「常に甘いものを摂取する」という状態になるだろう。

そして「当分の過剰摂取」となる。


どちらが健全で健康か?




身体は自然と「必要」と思うものを求める。

また、「不要」なものを自然と忌避する。


そんな自分の身体の自然な「反応」を「知識」で『間違い』だと決めつけて、「健康」と『される』方へ自分を捻じ曲げて行けば、いずれどこかで「爆発」することになる。


身体が一見「不健康」とされるものを求めるのは『理由』がある。

だが、ハナからそれを「悪」と決めつけて排除すれば、当然身体はその「代替」となるものを求める。

「必要」だから身体が求めているのであって、その必要性に応じなければ「代替」を求めるのは当然である。


因果の「因」に対して何らかのアプローチをしなければならないのであるから・・・


タバコをやめれば代替として当分摂取が必要となる。

だが当分摂取しても「エンジンを回す」という行動は止まらず、燃料を注ぎ続ければ「回り続ける」ということになり、今度は「頭がパンクする」ように「熱」を発するようになってくる。

そうすれば今度は「冷やす」という行為が必要となる。

そして、「冷やす」ことでエンジンのキャパは復活し、まだまだ回り続ける。


これが癖になるとやがて「精神崩壊」を起こすまで「回り続ける」ことになるだろう。



目先の「健康」の「善し悪し」だけで物事を判断すれば、その先にある「必要性」を見落とす。


酒もタバコも身体によくないとされる嗜好品というものは『必要性』があるから生まれ存在している。

それを単に目先だけの「健康」という部分だけを見て排除すれば、かえって不健康、不健全になる場合もたくさんある。




何にでも「遊び」という「ゆるみ」が必要であり、それを「悪」として排除すれば、それは「常に張り詰めた」状態となり、『遊びの無いハンドルは事故を起こしやすい』のと同じように、どこかで事故を起こす。


ちょっとの「悪」を排除するという在り方は、張り詰めた緊張状態が常に必要とされる。

「必要性があるから存在している」ということをちゃんと認識しなければならないだろう。


排除すれば「代替」が必要となるわけで、だから「別の悪」は自然と生まれる。

それを「生まれるたび」に排除し続ければ、ただ単に「生まれ続ける」状態が現出するだけなのだ。




人というものにしても同じことで、「悪人」とされる人をいくら排除しても「代替」が生まれるだけである。

それは別の言い方をすれば「遊び」という「ゆるみ」であり、「ゆるみ」を排除すれば「事故」に繋がる。



健康を追い求めすぎると、不健康なものに対して「過度の反応」が起こる。

それは「健全」であると言えるのか?


ということだ。




例えば「酒を飲み過ぎる」という場合、「酒をやめろ」ではけっして解決しない。

酒を飲み続けたくなる「原因」というものがあり、そちらを解消してやるほうが「健全」であり、「健康的」な状態へと向かえる。

アルコール依存になるという「果」に対する「因」は何か?

ということだ。


酒をやめれば健康になる

それは当たり前の事であり「子供でも」言えること。

だが、依存の状態で酒をやめたら「別の不健全な代替品」を求めだすだけである。


タバコをやめて「飯がうまい」となり、気付けば「太っていた」なんでいうことはよくあることだ。

要は「適度に」という「線引き」を出来るように、自分でコントロールできるようになることが望ましいのである。




健康であるその前に「健全であるか」ということのほうが大事である。

酒もタバコも「不健康であるが不健全ではない」もの。

それが「行き過ぎる」のは「行き過ぎなければならない」ような『状況』があるということ。


行き過ぎるということは「自分が苦しんでいる」というバロメーターともなる。



適度な「不健康な嗜好品」は「遊び」であり「ゆるみ」をとるために必要なものである。

生きていく上で「必要」だから生まれ存在している。

それを否定する前に、生まれる「原因」があるということを知らねばならない。



「自分じゃその線引きがわからない」

だから困った時のために医者もいれば我々のような者もいるわけである。


そして「健康」であることに執着して目指している人ほど「精神的に不健全」となっていることが多々あることを知っている。

そういう人は「精神的代替品」を「不健康カテゴリーにまだ登録されていないところ」から引っ張り出してきているというだけである。

充分に「不健全」な状況に陥っていたりするのである。


それが「スピリチュアルブーム」というものだ。

まさに「精神的代替品」である。



そして「代替品の善し悪し」という「品質」についてわからないまま、摂取し続けている・・・・というのが今の現状であろう。


「ゆるみ」の無い「遊び」の無いまま「代替品」を摂取しているから「過度の摂取」へと至る。

品質が悪ければ「過度の摂取」を引き起こす。

品質が悪いのだから「摂っても足りない」状況が続くわけである。


摂れば摂るほどに「餓える」という悪循環だ。


タバコをやめて「甘いもの」を摂取するのと似ている。




それらすべては心の根っこに「恐れ」があるから起こる。

病気を恐れて「健康」に執着する。

それが「前のめり」になり過ぎている。



だから「コロナ」という『ただの風邪』で、ヒステリーのように「ワクチン」を接種しまくったのだ。


前のめりになり過ぎて「認知」が歪んでしまっているという「不健全状態」なのである。



精神に「遊び」が無く「ゆるみ」が無いため、遊びの無いハンドルをきるように「過度な反応」をしてしまう。

それが「パンデミック」というものとなる。


ハンドルをきって「過度」に曲がり過ぎたため、戻そうとして再び「過度」にハンドルをきってしまう。

それが繰り返し続き「混乱」が治まらない。

そういう時、人は「まっとうな思考」が出来ず「まっとうな答え」が出せなくなる。

自分で答えが出せないから慌てふためき、するといとも簡単に「言いなり」になるわけである。



『癌があるかもしれません』

人はその一言で「言いなりモード」に切り替わる。


人を「操る」とは容易いのです。



スピリチュアルに没頭して「摂取すればするほど餓え渇く」という状態は「そういう状態」なのですよ。




どうしてもっと「自分の身体の声」を信用しないのか?

それをしている時点で「自分を裏切っている」ということになるのに・・・・


自分を「裏切り続けている」状態では、「餓え渇く」のは当たり前の事。

代替品をさがして摂取しても「はずれ」を引く場合も多い。


「健康」に執着し過ぎて「不健康」を排除し過ぎて「代替品」が見つからず、全然違うところに手を出してみても「飢餓は埋まらない」だけです。



自分自身が建ててしまった「健康」という名の「バカの壁」の外側に排除したものを、もう一度見まわして「本当に必要だったもの」を見つけることです。


それが「健康」のために「不健全」となった「壁」を見直し、「健やか」と何なのかを問い直すのがいいでしょう。


そしてそれは「全ての物事、事象に通ずる」ものです。






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