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『神』を忘れ『道』を忘れて穢れを湧かせ続ける人々の「差別するな」という穢れ

Photo by dongmu
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認知戦


「認知戦」とは苫米地博士が作った言葉であるが、現代という「左脳傾倒」しすぎた社会では、言葉をあれこれ組み合わせて《認知を歪ませる》ということが日常となっている。ただただ理屈だけを組み合わせ、張り合わせて「キメラ」のような論理を作って「さあ、これが真理だ!」などという『幼稚な遊び』が世界中で当然のように「知的」などと『認知』されている。


そうこのような「キメラ」といういびつな理屈の論理を「聞いてしまっている」時点で、人々の《認知》はすでに歪んでいるのである。



『理屈と膏薬は何にでもくっつく』だから理屈をあれこれと貼り付けて「何がしかの姿」が出来れば「それ真実だ」という『レゴブロック遊び』で出来たおもちゃに過ぎないもの。





差別とは?


「差別」は、特定の属性(人種、性別、民族、宗教など)を持つ個人や集団に対して、不当な扱いをすることを指します。これは、国際連合が「差別には複数の形態が存在するが、その全ては何らかの除外行為や拒否行為である」としているように、不当な区別や排除を伴う行為です。 GoogleAI

一見、明確なようで非常に曖昧なこの「差別」というものの定義

「曖昧な定義」にしかできないものであるゆえに、結局のところ最後には『感情論』なのである。当人が『不当な扱い』と思うかどうか・・・・


だが、いくら「正当な理由」があっても『不当だ!』と叫べば『差別』という『理屈を貼り付けられる』わけである。

だが、「実行者」が『これは正当な理由だ!』と叫べば、それは「差別」として認識されない。


要は『声が大きい方が勝ち』という理論に帰結する。

「正当」という声が大きいか、「不当」という声が大きいか・・・




気付けば人は『心』を完全に見失っているわけである。


「差別化」し「区別」をした者の『心』その『心』が何処にあるのか・・・・ということが肝心なのであるにもかかわらず、既に『心』から「理屈」へと『視点がすり替わっている』わけである。

そして、視点が「すり替わった」ことで「論点」そのものが替わるわけである。


「差別」とは『不当なる侮蔑と不寛容』に根差している。

だが「視点のすり替え」によって『認知の歪み』が起こり、本来忌むべきものから「別のもの」を忌むべきという『認知の歪み』が起こっているわけである。




なぜそのような事が起こるのか?

それは人が『心』というものを『見失った』からに他ならない。



『差別』とは『心』の問題である。

「差別化」したり「区別」したりすることに何の問題も無い。

問題なのは『侮蔑』し『不寛容』である【心】の方なのである。




じゃあ何故【心】を見ないのだ?


見えないのか?

自分が見た相手の心の姿に自身がないのか?

自分の心の通りに振舞うことで批判されることを恐れているのか?




心の中に湧き立つ「感情」というものには「正当」「不当」という言葉は適用外である。

だから議論は平行線をたどり交わることが無い。

そのような「感情」となるのだから仕方がない・・・・


この「感情」というものに対する『判断』というものを人は《見失っている》のである。



だから「悪感情も個人自由」などという屁理屈に振り回される。

そして、『侮蔑』や『不寛容』に対して毅然とした態度で臨めないこととなる。




何のために「道徳」や「仏教」などで『人の心』というものの『在るべき道』が示されているのか?

どう在り、どう振る舞い、どう考え、どうのように帰結していくのがいいかという『道』が示されているだろうに。


だが近代の人はそれらを蔑ろにしてきた。「合理性」や「生産性」のもとで「不要」と排除してきた。

だから「差別」などという、そんなくだらないことで「迷う」のである。




自分自身に「これだ」という「心の指針」となる『道』があれば、何ら迷う必要などない。

だから、常に「心」というもの、「道」というものを考えてきている人は一切迷わない。

理屈を膏薬のようにペタペタと貼り付けて「屁理屈のキメラ」のような論理を生み出したとて、それが「いびつ」であることはすぐにわかるのである。



「心は見えない」

そう思っているなら、自分を練り直すことである。

言葉という理屈に「依存」している自分を「言葉に依存しない自分」に練り直すことである。


「心」が見えているなら、言葉に左右されない。

だから『認知を歪ませられる』ということも起きない。




人の心というものは、つねに「ダダ漏れ状態」で漏れ出ているものである。

顔に

声に

態度に

目に

口元に

鼻に

息づかいに

身振り手振りに

そして「言葉」に・・・


それが「見えない」というなら「練り直し」である。自分を練り直し鍛え直しすることである。


それをすることを今まで「怠って」来たから『わからない』のであろう?

なら「練り直し」である。




「道」とは何であるか?

そして、その「道」に自分はちゃんと沿って歩いているか?

自分の『心』が「揺らがず真直ぐ歩ける」まで・・・


すぐに怒りに呑み込まれ、罵倒するのは「怒り」の根という『穢れ』があるから。

すぐに恐れ委縮するのも「恐れ」の根という『穢れ』があるから。



「差別だ!差別だ!」とすぐに叫ぶ者たちの心に、「怒り」や「恐れ」の『根』が生えてしまっているのがよくわかる。

その『根』があるから『怒り』が湧き『恐れ』が湧く。


恨み、妬み、僻み、嫉み、等々・・・・毒の言葉を湧かせる『根』がある。


目の前の事象とは関係の無い『過去の記憶の根』であり、それが『毒』を湧かせるのである。



自分の心を練って練って真っすぐにした者にって、それは「火を見るよりも明らか」に見える。


「道徳」や「仏の教え」というものを『道』として、自分の「心」を『道に沿わせる』という鍛錬を、少しでも怠りなくやったのなら、自分が「道を外す」ことがあればすぐにわかるだろう。

それがわかるなら、誰かが「道を外している」ことなどすぐにわかるだろう。


ならばやることは「論破」などではなく「道」を示し「道」を正すことだろう。




「言葉」に振り回されることなく、「言葉」が発生する「根本」を正す・・・


かつての剣豪、兵法者たちが「相手の刀」に振り回されることなく、刀を握っている「拳」を見て、「足」を見ていたのと同じことである。

言葉は刀それを振るう者の「心」を制するのが『真の力』である。




道徳も仏の教えも、根本には『神』がある。


日本では「神仏習合」して「表現手段」が変わっただけであり、その根っこは「神」であり「神話」である。


日本だけではない。

世界共通に「神」が「心の基本」「道の基本」なのである。


神は違えど「道」は同じ。




だが、日本がそうであるように、世界中が「道」を見失い、「合理性」「生産性」の名のもとに「神」という『道』を蔑ろにしてきた。

そして自分の心を『道』に沿わせる・・・ということを怠ってきた。


だから「下手な兵法」で振るわれる言葉の刀に右往左往する。




「差別だ!」と叫ぶ者たちの顔に、声に、その姿に「恨みつらみ」の根っこから伸びている「毒の蔦草」が言葉となっているのが見えるだろう。


その声に、その姿に「恨み」が見えたなら、次は「何を恨んでいるのだろう?」という疑問が湧く。

その「恨みの根」から湧き出した「毒の蔦草」が、その者の「心」に絡まっているのがわかるだろう。


その「恨みの根」が張っている大地が「恐れ」という感情の大地に根差していることも見えてくるだろう。



「恐れ」ゆえ「怒り」が湧く。

それは人という生き物の「自然現象」である。


恐れを克服するために怒りを発する・・・

それが「人」という生き物である。


発した怒りが治まれば「喜び」となる。

その喜びが過ぎ去れば悲しい・・・

悲しみに浸り過ぎればそれは「恐れ」となる。


そして再び「怒り」が湧く。




巡りの循環が「悲しみ」に留まり「恐れ」を増幅させているわけである。

つまり「悲しみ」の種が「恐れ」の大地に根差して芽吹いた「怒り」ということ。


それは当人が気付き、克服せねば「毒の蔦草」は生え続ける。


「差別」という「侮蔑」され「寛容されない」という『悲しみの記憶』自分に起こったものか、誰かを見て起こったものか・・・

その『記憶の凝り』が「種」となり「恐れ」の大地に根付いて「怒り」の芽を出す・・・

その『狂ってしまった循環』が今も続いている・・・ということだ。


自分で自分の「記憶の悲しみ」を癒さなければ、その循環は終わらない。

それに気付かなければ、下手な兵法の刀を振り回し続け、周りにいる様々な人を『傷つけ続ける』こととなる。

毒の蔦草で毒されてゆく人も多くなる。




これが『日本の神話』にある『素戔嗚命』の物語である。


「大きな喜び」から始まったその大乱は、やがて『ヤマタノオロチ』という化け物を生むこととなった物語。


神話は「人の心の道」を示す「明かり」である。だから「天照大御神」と言い、「道を照らして示している」わけである。

それが時代を変えて「仏の教え」となり「道徳」となり、「天照大御神」に『習合』した『道』である。




差別だ差別だと叫ぶ人の心に「神」という『道』は無い。

だから「筋」が無く「軸」が無く、「理屈」で右に左に変転して逃げ続ける。

「ああ言えばこう言う」その右に左にクネクネと歪んで進む屁理屈は『蛇』そのもの。


楽園を追われたイブが「蛇」から与えられた『屁理屈という知恵の実』である。


ゆえに『楽園』から追放されたわけである。


『楽園』とは『道』に沿って進むということ。

その『道』の軸となるのは「神」である。




『道』は「世界共通」天国も、天上界も、天竺も、楽園も、ヴァルハラも・・・・

心に「神」という『道しるべ』を持って進む「歩み」である。



そこには「差別だ」何だのと言って「毒を湧かす」者はない。

当たり前だ。

道を軸とし、道に沿っているのだから・・・


だから「楽園」であり「天国」なのである。




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