top of page

五感の極みの先に在る六感の世界

更新日:4月13日







気付き


前回の記事で「人は気付きを封じている」と書いた。


それはここ3~4年の顕著な流れであり、その現象を見ているとわかるのが

「人は左脳に振り回され過ぎている」という状態から起こる現象であろうと思う。



「情報」と聞いて人は何を思い浮かべるだろうか?

そして、そこには「何が」欠落しているだろうか?



多くの人は「左脳に」直接働きかけるものを「情報」としているだろう。

そして、それらは『メディア』と呼ばれるものから与えられる「言葉」であり「映像」であり、そこに含まれる「感情」であり・・・・

そのようなものを「情報」の根幹としているだろう。



だが現実は『五感』が「感知」したものが「情報」なのである。


暑い・寒い、甘い・辛い・苦い、痛い・心地いい、うるさい・静か・・・・・

それが「情報」の元である。


そして、それらは「右脳」が認知して「左脳」へ引き渡すもの・・・



しかし、「メディア」とは「右脳」の判断を飛び越えて「左脳」へと直接押し付けられる情報であり、「右脳」の判断よりも先に「情動」を起こさせようとするものが多い。

言葉や映像のインパクトが強ければ強いほど、右脳の判断は「情動」の波にかき消される。

つまりは、より「情動の波」を湧き立たせるものほど、人は惹かれ「右脳の判断」を無視するということになる。



情報(情に報いる)とはよく言ったものだと思う。




「右脳」の認知力が明敏なら、どれほど強い印象を与える言葉であろうと、入ってくる段階で「違和感」というものがあるなら察知する。

どのような情報であろうとも、左脳に到達する前には必ず「右脳」を通らなければならないからである。


視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべては「右脳」が感知し認知し「左脳」へと引き渡す。

言葉を読むのは「視覚」であり、聞くのは「聴覚」である。

映像を見るのは「視覚」であり、聞くのは「聴覚」である。

だから必ず「右脳」を通る。


その映像が、言葉がどれほど「情動」を動かすほどに強い印象を刻むものであろうと、左脳に到達する前に右脳で感知した「違和感」に気付いて『そのままにしない』ということができるか?

ということである。




前回の記事でも書いたが

「左脳が作り出している常識は仮想世界」なのである。

現実との接点を持っているのは「五感」という「感覚」であり、それを認知する「右脳」が「現実を照らす」灯りなのである。


すなわち『天照大御神』が『左目』から生まれた所以である。

そして『右目』の神を『月読命』と言う。

右脳が照らした「現実」を左脳が「読む」ということである。


さらに、鼻から生まれた『素戔嗚命』は『嗅ぎ分ける』ということ。


左目と右目の「間」にある鼻で「嗅ぎ分ける」ということである。




しかるに、現代人は『鼻づまり』が多いわけだ。


「情動」に流されて右脳の認知を「嗅ぎ分ける」ことが出来なくなっている。

ゆえに現実離れした「仮想世界」を「現実」と認識してしまっているのである。




『為政者』というものは数千年におよび人々の『嗅ぎ分ける』という行為そのものを『悪』としてきている。

それは「命に従う」という「律令」であり、その変化したものが「法」である。


「嗅ぎ分ける」という行為を当たり前の前提としての「命」であり「律令」であり「法」であるならば、そこには何ら問題はないであろう。


だが、「嗅ぎ分ける」ことを『悪』としたそれらは、ただ『従え』という『従属行為』でしかない。



なぜ、神話の『素戔嗚命』は『悪』とされているのか?


「気付かなければ不調ではない」

ということと同じである。


『気付かなければ悪は無い』

そういう世界を求め、そういう律令、法としてきたわけであり、だから神話で『素戔嗚命という嗅ぎ分ける(気付く)存在は悪』となるのである。

気付かなければ『悪』など存在しない・・・・ということだ。



「嗅ぎ分ける力」

つまり「気付きの力」を極力奪うのが『情報』なのである。

それは「操作するための情報」


そして「嗅ぎ分ける(気付く)」ことを『悪』とする「常識」

それらが完全に定着してしまっているのが世界の日常なのだ。




いくら右脳(天照大御神)が現実を照らしても、「情動」に押し流されてそれを「読む」ことが出来ない左脳(月読命)


『情動』とは?

イヴにリンゴを食べるよう囁いた『蛇』である。



そして

『情動』に突き動かされて岩戸を開いて出て来た「神」を引き出した『神々』である。



ゆえに日本人は「情動ポルノ」に突き動かされやすい。

右脳(天照大御神)が既に『情動』を照らしているからである。



情に流され情を照らす『天照大御神』を主神として、「気付き」を司る本来の『天照皇大神』はまだ岩戸の中・・・

そして「嗅ぎ分ける(気付き)」神である『素戔嗚命』は『悪』


大化の改新で『律令制』を敷くにあたって、これらのことが実行されたわけである。



そして今は『令和7年』


この意味がわかるだろうか?


この3~4年、人々が『気付き』を『悪』としてきているものの「根っこ」がそこにある。

『令和』と名付けられたときにはすでに「始まっていた」ということだ。




SNSの流行は『情動』によって人々の「気付き」を奪う。

右脳の「認知」を塞ぎ、鼻の「嗅ぎ分け」を塞ぎ、左脳の仮想現実に「情動」の波で覆って、「気付き」を掻き消し人々を「情動」「衝動」で判断する動物へと変えてゆく。



ほんの4~5年前、ようやく岩戸が開きかけた人々が、まるで成長の「逆行」をするように次々と「岩戸」を塞いでいった。


情動の蛇に突き動かされて、現実から乖離し仮想現実を尊ぶ人々・・・・

「不調」に『気付かない』ことを「健康」とする人々・・・・


そして、「免疫反応」という「気付き」を『麻痺』させる「mRNAワクチン」を打ち続ける日本人・・・


「免疫反応症状」イコール「不調」であると・・・・

免疫反応を「麻痺」させることを「治癒」とする歪み・・・・



そして、左脳が作り出す「仮想現実」で「現実は思いのまま」と嘯く人々・・・・・






五感の極みの先の世界


五感が感じる世界の先に「第六感」の世界である「霊界」は存在する。

五感が感じたものを「精査(嗅ぎ分ける)」という『審神者(さにわ)』が出来て初めて感じた世界を「読み解く」ことが出来る。


しかれども、左脳が勝手に作り出した想念世界は「幽界」であり、それは「繋がり」というものを持たない『蛭子(ひるこ)』の世界なのである。


繋がりのある幽界霊と、繋がりの無い幽界霊・・・・

その「違い」というものがある。


だが、岩戸を塞いでしまった右脳、嗅ぎ分けることを忌んだ鼻では、その「違い」というものがわからない。



情動の「蛇」に付き従って想像される左脳世界は、自らの霊を「蛭子」という幽界を彷徨うしかない「繋がり」のないものへと変える。

それはひとつの『業(カルマ)』である。


繋がりが無いゆえに「血縁」「血統」という「繋がり」に執着し、そこから離れられない「場」で『輪廻転生』の循環の中で「子孫」という『器』に憑依し続けることになる。

離れてしまえば「何処へ」流れてゆくかわからないから。

だから、この世に近いあの世の「浅瀬」でいつまでも執着し続けることとなる。


死んでなお「五感の先」の世界を知らないまま・・・なのである。




霊界は「五感の極み」の先に在る。

ゆえに「五感」で感じ得る世界である。


しかし、右脳を塞ぎ、鼻を詰まらせたままでは認知し得ない。


右脳で確と「現実」を認識し、「現実」と「仮想」を鼻で確と「嗅ぎ分け(さにわ)」てこそ認知し得る世界である。


そうすれば、目の前に繰り広げられる本物の『現実』というものが、如何なる世界なのかということがわかるだろう。


人というものが如何に「単なる器」に過ぎず、そこに憑依する「霊」が入れ替わり立ち替わりしている様が見て取れる。


さらに、自然の中に如何に多くの目に見えない生命が息づいているかということが見て取れる。



それを当たり前とするには、『現実』をありのまま認識し受け止めなければならない。

けっして「仮想世界」へ逃げ込んではならないのである。

「情動」に突き動かされるまま「仮想世界」へ逃げ込めば、海原を彷徨う船に乗る「蛭子」と化してしまう。




「五感を磨く」ということは、五感を感得する右脳を磨くことであり、嗅ぎ分け審神者する鼻を磨くことである。

そして、現実は「こうである」とありのまま読み解く左脳を磨くことである。


五感の中で自分が最も得意とするものは、最も自分が「信頼」出来るものである。

だから、その一つを手掛かりに進んでゆくことだ。

その一つの感覚が磨けたなら、その後、他の感覚を磨いても「間違い」が少なくなる。


絵を描くことなのか、文章を書くことなのか、歌うことなのか、演奏することなのか、掃除なのか、料理なのか、走る事なのか、泳ぐことなのか・・・・・

一つを極めれば他も極め行ける。


そして、極めなければ「極みの先」にある世界にはたどり着けない。


極めるのは「技」ではなく「感受力」

そして、「感受力」が極まったところに感受を生かすための「技」という手段が発生するのである。


そして、発生した「技」という器の中に、新たな世界を垣間見るだろう。


それが「六感」の世界



その世界に突入する時、自らの身体も「六感」へと対応し行く。

それが【覚醒】というもの。



彼の世とこの世を『同時』に生きるということの始まりとなる瞬間である。





 



Comments


bottom of page