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『パラレルワールド(並行世界)』という『仮定世界』からの離脱






この記事も前回、前々回の記事の「引き続き」となる。




前回、前々回で強調していたのは


「左脳が作り出す仮想世界」


というもののことであった。



現実との接点があるのは「右脳」であり、右脳が感知し認知したものを「左脳」は受け取るということ。


そして「左脳」が言語化や構造認識をして再構築して「右脳」の気付きを左脳が『実相化』する。

そして、それを再び右脳へ返して『これで合っているか?』と「確認(サニワ)」しなければならない。


右脳と左脳の間で、その「審神者(サニワ)」を行うのが「嗅ぎ分ける鼻」である。



これが前回までの要点である。






パラレルワールド



「もしも何々が〇〇だったら・・・・~~~」


左脳の「仮想世界」で繰り広げられる想像は『仮定』をいくつも組み上げ、最終的に右脳が「ジャッジ」した『ひとつ』を「事実」として終着させる。


だが、せっかく想像した『仮定』も捨てがたい・・・・


「もしこっちの仮定だったらどうなっていただろうか?」


そうやって様々なフィクションの物語は生まれる。



右脳がしっかりしていた日本人なら、それらが「フィクション」として面白おかしく更に広げて行ける。

だから昔から様々な「仮定」の創作物語が生まれて来た。


それは「現実ではないが」という前置きが語らずとも付随しており、だからいくらでも「羽目を外す」ことが出来る。

日本の漫画やアニメが世界を席巻する所以であろう。



だが、外国人は違う。

そもそも思考機序が違う。

右脳と左脳の「使い方」が違う。


左脳が想像した「仮定」を右脳が「ジャッジ」しにくい・・・と言うのがいいか。

つまりは「日本人ほど右脳が鍛えられていない」ということだ。



それは『言語』がすべてを物語る。




世界で最も言語数が多い国の言語は日本語である。


何故か?


日本語の中には「右脳言語」が多数含まれているからだ。


右脳言語とは「右脳が感知したままの言語」という意味。

そして、その「感知」したものを「有耶無耶にしない」から言語化してゆく。

つまり「表現」せずには居れないのだ。


鳥の鳴き声、虫の鳴き声、様々な色合い、雨風などの天候にまで「違い」を見出したら言語化せずにはいられない。


そして、会話に於いても「右脳の感知」が無意識に「共有」されているから、それに沿った会話となる。

だが、同じように外国人に語りかけても「?」となる場面が出てくる。


外国語の多くは、いや、ほとんどは「左脳構築」した「型」の中で行われ、そこからはみ出す会話は、新たな「型」を要するため、一度「区切り(終わらせ始める)」が必要となる。



例えばこの記事の文章は「外国的」である。

「型」と「区切り」が多用されている。

日本人もこういう文章が当たり前となって来たからだ。


だが、昔の日本人は「区切りたければ区切る」という「主観」で区切る文章を平気で書き、さらに読めていた。

「区切りはあるが区切ってもよく区切らずともよく・・・・」

右脳の「気付き」そのままに流れてゆくことができるということだ。



日本人が「区切り」を意識する時、それは「五・七・五」のように「文字数」で区切って会話を遊ぶ。

区切りを一種の「縛り」として遊ぶ。

つまり、「縛り」でしかない・・・という認識なのだ。



日本人の「区切り」は非常に「右脳的」である。

五七五の区切りは「音」があり「拍子(リズム)」があり、それが「心地よい」と『感じる』区切りである。


そして、五七五の短い言語から、今度は「右脳」が「気付き」を試される。

数少ない言語の中に、実はもっと長い文章が凝縮されている・・・ということへの気付きである。

言語と言う祇を「折り紙」のように遊んでいるのだ。


それが数千年も前からそのようなことが行われていたのだから、日本人のDNAに等しく刻まれている。



だが、外国人にはそのような言語的認識はない。


ちょうど「国」というものの形態を見ればそれはよくわかる。

「塀」の中に町があり、その中心に「城」があり、それが「国家」となっている。


それが「言語」の在り方と同じ機序なのだ。

それは非常に「左脳的」であると言えよう。


だから日本語のように「右脳感知」からの直接的な言語が非常に少ない。




外国人にとって「感覚」とは非常に「曖昧」なものである。

だが、日本人にとって「感覚」こそは「現実」なのである。


外国人にとって「左脳」が構築した「論理」こそ「真実」である。

だが、日本人にとって「左脳」が構築した「論理」は「仮定」であり、「右脳」が感覚によって「現実との一致」を判断する「審神者(サニワ)」を要する。


現代の日本人は「外国脳」に寄っているため、「論理こそ真実」へと傾倒しているが、昔の日本人なら「理屈と膏薬は何にでもくっつく」と言って「右脳」でサニワしていることだろう。




右脳が明敏な日本人なら「フィクション」として物語を楽しむものを、外国人は「右脳」が日本人よりはるかに「曇って」いるため、「物語」を「論理」という『塀』で囲み、「国家」を樹立するように「理論」を樹立する。

そうして空想し得る「物語」を「パラレルワールド」という「型」にはめて展開してゆく。





現実の中にも「パラレルワールド」は存在する。

それは『為政者』が変遷し「権力」を安定させるために行う「歴史改ざん」のたびに「パラレルワールド」が生まれる。

それは「仮定世界」というもの。


歴史改ざんとは「過去」を書き換えるのであるが、それは「人の記憶」にのみ行える行為である。

そして、歴史が長く続けば変更した歴史認定は強まり、「常識」という基礎に据えることができる。


人はそんな「仮定世界」の物語が常識化された「基礎」の上に立っているわけである。



例えば、日本人は『神武天皇』が樹立した国家・・・・という「物語」の基礎の上に立っているが、その物語が構築されたのは大化の改新の時である。

けっして「神武天皇」の時代ではない。


「嘘なのか?」と言えばそうではなく、「真実か?」と言えばそういうわけでもなく・・・・

そんな『曖昧』なもの(物語)の上に立っているわけである。




本来なら「バレない」はずであったのだが、あろうことか『魏志倭人伝』に『卑弥呼』という『倭国の女王』が記述されてしまっていた。


これが世に広まると非常にマズいわけで、どうしたものかと「学者」たちは頭をひねり出して出てきた答えが「邪馬台国伝説」という物語を創作し『見方を変える』ことである。


まず「邪馬台国(やまたいこく)」と『呼び名』を変えた。

本来は『邪馬台国(やまとこく)』と呼ぶものだ。

魏国もそのつもりで書いているはずなのであるが、それ(ヤマト)を「ヤマタイ」とすることでひとつ目の「見方」を変えた。


次に『邪馬台国は何処にあった?』という疑問を投げかけ、日本の『何処かにあった国である』という『見方』へと変えた。



当然、そうするしかなかっただろう。

今まで『これが日本の歴史である』と世界に、日本人に通してきたわけであるから・・・


だが、魏志倭人伝に「残ってしまっていた」ことが『真の歴史』というものがどのようなものであったかを証明してしまうのである。






ウガヤフキアエズ朝


正史上では『神武天皇以前の王朝』となっている王朝である。


『鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)』を神とする王朝のことであり、この神の母神が『豊玉姫』であり、『玉依姫』と婚姻し『神武天皇』が生まれた・・・・となっている。



神話の中には「パラレルワールド」が多い。


かたや別の神話では『玉依姫』は「処女懐妊」をしている。

禊ぎをしている時に『丹塗り矢』を受けて「神の子を身ごもった」となっている。

『丹塗り矢』は『火雷神』であり、生まれた御子は既に神上がっている。



前述の「玉依姫から神武天皇が生まれた」と言うなら、ウガヤフキアエズ朝は玉依姫一代で「終わっている」ことになる。


後述の「処女懐妊」では「神武天皇は生まれない」のである。



この二つの物語は「どちらが真実でどちらが嘘」というものではない。


ウガヤフキアエズ朝は『玉依姫』という「巫女」を『依り代』とした『神』が統治する時代であるということ。

『神』の依り代なることを「結ぶ」と言い、「神託」により「王」などを選出することが「神産み」となる。

そして、「王」としての代名詞となっていたのが『大物主』という呼び名であり、今的に言うと「大将軍」とでも言おうか・・・

つまりは「神託」を与える「女王」と、「為政」を司る「大物主」という体制である。


日月神事の⦿のマークを見てわかるように、・(女王・神託)と〇(大物主・為政者)というわけである。



そして、代々『玉依姫(神の依り代)』となるものを『豊姫』と言い、豊玉姫神からの『玉(魂・神)』を受け継ぐという「玉依姫」という一つの『型の継承』である。


だから、その『型の継承』の中で「神武天皇」は「神託」により『継承した』というのが『玉依姫から生まれた』という物語となる。



だがしかし・・・・

魏志倭人伝に『卑弥呼』が登場してしまった。

『卑弥呼』は『火巫女(火雷神の巫女)』というウガヤフキアエズ朝の型である。

そして『邪馬台国の女王』となっている。


さらに魏志倭人伝には『台与』という名が記述されている。

これは「トヨ」と読む。


台代がトヨなら邪馬台国はヤマトコクと読むのが当たり前のこと。


それを『見方を変える』ために「ヤマタイコク」としたわけである。




魏志倭人伝に登場する『卑弥呼』の時代はいつであるか?


ちょうど『ヤマトタケル』『神功皇后』が活躍していた時代である。


日本は「戦乱の最中」であったということだ。



『神功皇后』のその少し前に『ヤマトタケル』という人物が登場する。

彼は「カワカミタケル」という人物を暗殺し「タケル」の名(称号)を奪った。

史上では「譲られた」となっているが、暗殺した相手が「譲る」わけもない。

右脳がまともに機能しているなら「そんなわけあるか」とすぐにわかることだ。


「タケル」とは「建(タケ)」から来るもので、例えば『建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)』とか『建御雷神(タケミカヅチ)』などに使われており、「勇猛」であるなどというものに付される「称号」である。

そしてそれは代々「大物主」が冠してきた称号でもある。


つまり、ヤマトタケルは「大物主」であった「カワカミタケル」を暗殺し、自ら「タケル」を名乗った・・・・というのが本筋であろう。


その後のヤマトタケルの行動は、「将軍」として各地を転戦しているわけである。



暗殺された「カワカミタケル」には母がいた。

その母こそが「豊姫」であり、魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」である。

後に『八坂刀女(ヤサカトメ)』として『諏訪』に祀られる。


このような時代に「魏国」へ渡ったのは、政治的、戦略的な交渉だったのだろう。



そして、神功皇后の時代では「九州征伐」が行われている。

カワカミタケルが暗殺されたのも九州である。


つまり「魏志倭人伝」に登場する『邪馬台国』は、この時「九州」のみとなっていたことが推測される。


さらに、神功皇后は「台与」という巫女を同行させていた。

これは明らかに「豊姫」という「ウガヤフキアエズ朝」からの女王火巫女であろう。


もはや「ウガヤフキアエズ朝」は完全に新ヤマト朝廷に組み込まれ始めていた・・・ということになる。




だが、まだそれでも完全なる「支配」までには至らない。


「物部(モノノベ)」

「大物主」の「物」の「部」といういわゆる「軍事集団」である。

武士(モノノフ)とはここ(物部)から来ている。



彼らは連綿と続く神の系譜の代弁者である。

アマテル神と瀬織津姫から瓊瓊杵尊と木花咲耶姫、火遠理命と豊玉姫、鸕鶿草葺不合尊と玉依姫という系譜を守り続けている。


その「物部」を排除する機会が「聖徳太子」の時代にようやく訪れた。

そして「物部」を政権から排除し、神々の系譜を「仏教」で蓋をした。


そうしてようやく「新しい神話(記紀)」が生まれる。

神武天皇までさかのぼり、新たな神話「記紀」を創り、政から『神(神託)』を締め出して「仏教」で蓋をしたのである。


ここから『人皇』の時代が始まる。



まぁしかし、この時以前から『神』との交信はずいぶんと途切れていただろう。


最初の『岩戸締め』の時、すでに神との交信は「日常」から遠のいていたと思う。


素戔嗚命を「悪」とし、天照皇大神を「岩戸」で閉め出した時すでに『神』からは遠ざかってしまっていた。


そして都合良く「別の神」を『天照大御神』とし、『神輿』に閉じ込め「担ぐ」ことで『惟神』としてきたわけである。

担ぎ手の意思で何処へでも行ける神輿である。






話が思いっきり横道に逸れてしまいましたね。


要は「仮定世界」という『パラレルワールド』に人は立っているということ。

だが、何故か日本では「記紀」という書物は編纂されたが、「経典」のようにはならなかった。


新たな為政者自身が統治の根幹を「新しく」することが出来なかった・・・と言った方がいいかもしれない。

唯一出来たのが「習合」である。

「重ね合わせる」くらいしか出来ないのである。


仏教で覆い隠そうとしても、結局は仏教の方が染まってゆく・・・・

そんな現象が起きてしまうのである。


何故か?



全ての宗教の大元・・・・だからである。


どんな宗教を覆いかぶせても、「大元」と「写し」では比ぶべくもない。

「写し」の稚拙さが剥がれ落ちてしまうのである。


「教えられた」者の『理解度』で「宗教」は形作られる。

だから『理解できる範囲』しかカタチに出来ない。

だが理解するためには「型」が必要であり、それが無いと手がかりが無いのである。

共通認識として「在る」ものならば、そもそも宗教の「型」など必要ないのである。

つまりは「共通認識」が無い、もしくは持てないということになる。


何故、その差は生まれるのだろうか?


それは「言語」そのものによる。



ここで話が戻って繋がる。


要は「言語」そのものも『教えられた』ということだ。



日本語は「右脳の感知」を言語化してゆくように生まれてゆく。

しかし、外国語は「左脳構築」されることが前提の構造である。


つまりは「言葉を生み出すのは右脳感知から左脳整理によって形作る」ということである。

「右脳感知」による言語展開で言葉を「生み出す」ことを「前提」としているかいないかの差・・・・というものが如実に表れている。


そして、言語展開と同じく宗教も「型」を模すことを前提としているわけである。


塀があって「国家」とするように、経典があって「宗教」という形態をとるということだ。

それは「言語機序」の現われそのものなのである。



だから龍に翼が生えてドラゴンとなり、天使にも羽が生えているわけである。

それは国家の「塀」と同じ。

言語展開の機序の「型」そのものである。


つまりは根源的に「型を模す」という機序があり、それが生まれるということは「言語を教えられた」と推察されるわけである。



日本人は音なり色なり、感じたものを「言語化」してゆく。

そうやって「言葉」は作られてゆく。

そしてそれが「共通認識」となった時、共通言語となるわけである。


だが外国語は「感じたものを言語化してゆく」という創作的なものが薄い。

創造性よりも「構築」に重きを置いている。


構築は「左脳」の領分である。

そして、左脳は「感知」し得ない。

右脳が如何に形作って左脳へ情報を渡すか・・・・

その差が歴然と出る「言語化」



つまり、右脳が日本人より曇っている外国人が生み出せる言語は非常に少ない・・・ということだ。




「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」


ヨハネ福音書の冒頭である。



ヨハネとは四八音(ヨハネ)

いろは四八音を「教えられた」ところから始まる。

それが「禊ぎ」(持っている言語を手放し、いろは四八音の言語を習得すること)



そして日本語によって『神』というものを教えられる。



イエスの時代、日本の時代は「ウガヤフキアエズ朝」の時代


『玉依姫』の火巫女(卑弥呼)の統治時代である。

だからマリアは『処女懐妊』する。


そして「イエスキリスト」を生む。


それは「神託(懐妊)」によって「生む(授ける)」ということ。




イエスキリストの十字は物部の家紋の十字であり守屋家の家紋の十字であり、島津家の十字でもある『神との結び』。


キリスト教はウガヤフキアエズ朝の「型写し」である。




旧約聖書やバラモン教、ゾロアスター教などはもっと古い。

天地開闢があり、造化三神が登場し、そして神世七代の神々が地上を形作るところから始まる。



外国にはそれらの物語の「教え」という『型』が継承されているが、日本には神々の『名』の系譜があるだけ。


型の教えは日本人にとっては「必要の無いもの」だからである。

だが外国人には「必要なもの」なのである。


この『違い』は「認知能力」の違いであり、「感知」の違いであり、それが「共通認識」となっているところに絶対的な差異が存在する。



日本人なら「名前」から様々な「想像」が出来る。

しかし、外国人の外国語では想像し難い。


そもそも、神は人間の論理思考では「追い付かない」ことなど日本人の根っこに当たり前のように染み付いてしまっている。

だが外国人は「理解」しようと躍起になる。

だから「届かない」のである。

届かなければわからない。

わからないから「型」を求める。



論理的でなければ「現実」と認知出来ない者と、感覚で体感して「現実である」と認知する者では当然違うのである。




『神』とはそもそも「理解」するものではない。

いや、言い方を変えよう。

「理解」から入ろうとすること自体が間違いである。

龍に翼を付けている時点で「理解」に至ることは不可能だ。


どれほど言葉を尽くしても、理解に至ることは無い。

理解するためには「体験」することが絶対的に必要なのである。


「体験」してはじめて『あぁ、そうなのか』と理解が進む。

そして自身の中で「言語化」も「論理立て」も出来るようになる。

だが、それを語ったとしても「体験」が無い者には「理解」出来ない。

共通体験があるならば、語りも共有できるだろうが、体験が無ければおおよその場合「意味を間違う」ということになる。


意味を間違い、理解を誤った人々が、間違い誤った「神」を語る。

誰かが語ったその「型」を模してゆく人が続く。

そうして作られた「神」の常識は、常にどこかがズレている。


「多数」が語るものを模してゆく人々・・・・

多くの宗教が劣化し歪んでいくように、認識はどんどん外れてゆく。



「体験」するには左脳の論理は弊害となる。

それは「塀」を作り「限界」を作ることに他ならないからだ。


翼など必要ない龍や天使に翼を付けた姿が先行して頭の中に居座れば、体験をありのままの姿で受け止めることが出来なくなる。


龍や天使が「翼」を付けているように、人々の『神』の認識はズレている。

たぶん霊の認識も、霊界の認識も、守護の認識もズレている。

いろいろズレたものをあらかじめ心に、頭に刻まれているから、真に「神」を体験したとしても『気付けない』だろう。



だから『禊ぎ』が必要なのである。

ヨハネが言葉を捨て、新たな言葉を取り入れたように、邪魔となるものを自分から排除しなければならない。

それが「禊ぎ」である。

川に浸かるのが禊ぎではない。

そんなところからズレているのだ。





前々回の記事で書いた『離脱する』ということが最も大切なのである。

「常識」としてきたものから『離脱』する・・・・

それが『禊ぎ』となる。


離脱して毒出しする・・・・

それこそが「禊ぎ」


「毒」とは「ズレた常識」であり、邪魔になる「常識」であり、ズレた歪みが生む『悪』である。



ヨハネが「いろは」を教えらえたところを想像すると、さも困った事だろうと思う。

それは「言語理解」という枠を超えているだろうからだ。


いろはにほへと ちりぬるを

まずこの「七五調」の詩のような文

そして

色は匂へど 散りぬるを

「え?色が匂う?」

そんなところからパニックだったことだろう。

日本人なら「あぁ、なるほど」で済むが、外国人には「???」の連続である。

だが、それを「感得」しなければ『神』へは到達できないのだ。




この世とあの世は言うなれば『並行世界』である。

だが、多くの人が想像する並行世界とは違う。


よく言われる並行世界は非常に「平面的」な視点で語られる。

だが、この世とあの世は「立体」であり「立立体」であり「復立体」であり「複立立体」であり、そのように「並行」しているわけである。

分離しながら同時存在しており、ゆえに重なることも可能となる。


死生、増減、向上、劣化、変化などの「在り方」自体が違うため、「時間」そのものも違い、概念も違うものとなる。


昨日の自分と今日の自分があちらの世界では同時に在る・・・などということも起こり得る。

もっと言うなら過去と現在と未来の自分が会議する・・・・ということも起こってしまう。

まぁ余程の場合に限られるのだが、一度だけそんなことがあった。




この世の在り方の「常識」を外せなければ、あの世で見たもの聞いたもの体験したものを「ありのまま」受け取ることは出来ない。


「常識」とは『常に左脳に存在する認識、見識』などであり、右脳で現実との整合性が取れていない見識は「仮定」に過ぎず、だからそれ(過程でしか無いもの)を『禊ぎ』するのである。

特に、昨今の人と言うのは『情動』に突き動かされて現実との整合性などお構いなしである。


下手な「教え」などかえって邪魔となるばかりである。




断食をする際は常識から『離脱』することが大事と言ったが、断食自体も「食」を断つのみでなく「情報」も断食し、人との関わりも断食し、様々なものを断って「孤独」となることが一番良い。

特に「言葉」は『霊の食事』であり、だから様々な日常に溢れる「言葉」から離れることは大切なことだ。


そして常に自分を「空」に還し、「空」の状態を思い出して、それを日常に帰っても保つこと。

「空」に還らねば霊界との通信も、神々との対話も不可能となるからだ。



「空に還る」とは『人は霊の器』であることを自覚するということ。

自分という『器』に自分という『霊』が在ることを「思い出す」作業でもある。


日常に溢れる様々な事柄で、器はすぐにいっぱいになるからだ。



そして、自分という『霊』は、上の次元の『自分の霊』を「器」として重なり、さらに高次元の『神』という「器」に重なる。

あちらがこちらに重なるように、こちらもあちらに重なりゆく。

少し上の五次元であれば半分は自分の意思が行動に反映されるが、次元が上がるほど自分の意思は思うようにならず、ただ「眺めている」というだけの状態になる。

それは反対も同じである。

だから間に立つ次元の霊・・・つまり「守護霊」が大切になる。


守護が上の次元と接続されていれば、上位の次元の神の意思は末端の現世まで反映されやすくなる。

そうすれば、三四五の次元、五六七の次元と離れていても、常に神の意思は七六五、五四三と真っすぐ降りる。

ゆえに中間の次元は上と下の繋がりを保つ非常に大切な場所なのである。


だが、ほとんどの五次元の守護神というものは、その上の次元の神との繋がりが途切れており、下の次元とも途切れがちという現状である。

だから「蛭子」が生まれやすい。



情報の波に溺れ、情動の激しい波に心は平衡を失い、「導き」がどれかもわからないという状態だ。

それが「常態化」しているために、岩戸は完全に塞がっているということ。


そこに「ズレた教え」によって「明後日の方向」へ向かっているから、いくら努力しても努力ともならない。




『赤子に帰れ』

その言葉通りなのであるが、その言葉の認識もやはりズレている。


先述の「ヨハネ」は『言葉を手放した』と言ったが、それは「赤子」そのものであろう。


何が言いたいかというと、『後天的な常識という基礎』を手放すということだ。

それが言葉であったり、常識であったり、学びの記憶であったり、執着であったり・・・・

現代と言う時代で後天的に得たものが『邪魔をする』ということなのである。

だから『後天的学び』の無い『赤子に帰れ』ということになる。


例えば、後天的に「学んだ」ことで、本来無いはずの「恐れ」などが現れる。

そうなると、「恐れ」に対して「防衛機制」という『反射』が起きる。

本来「恐れ」で無いものを「恐れる」ことで、気付きを反射で「防御」してしまったりするからだ。



情動を呼び起こす情報というものは、人を「不安」にさせる言葉や映像や音色が多用される。

だがそれは本来、恐れる必要のないものを、「情動」を煽られて「左脳」に「危機」を仮定させるものである。

つまりは「穴の中の虫を煙でいぶり出す」ように行動を起こさせるための情報なのである。


現代はそんな情報で溢れている。


不安を煽り、怒りを煽り、悲しみを煽り、欲望を煽って「情動」を突き動かす。

だから心の水面は鎮まらず、常に大波を打っている状態が常態となり、その危機を回避せんという「仮定」に左脳は縛られる。



いかに現代人が左脳で作り出した『仮想世界』にどっぷりと漬かり込んでいることか・・・・

映画の「マトリックス」そのものである。




そんな『仮定世界の仮想世界』が幾重にも重なる現代の世界は、すでに『パラレルワールド』そのもの・・・なのである。





 









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