『健康・健全という認識の誤り』~ホリスティックの原点回帰
- 亞空 淺田
- 4月11日
- 読了時間: 8分
更新日:4月13日

毒出し
時々「毒出し」をしなければ・・・
と思うことがある。
そういうときは、すかさず「断食」モードに入る。
ただ単に「食べない」時間が長くなるだけであるが、それで「毒出し」は済む。
普通の日常というものを送っているはずなのだが、現代社会には『毒』が当たり前のように普通に流れており、およそ全ての人がその影響を受けている。
身体の「毒」のみならず、心の「毒」をあらゆる場所で吐き続けているため、「毒」の川に『浸かっている』状態が「常態」となっているから、実際の「健康な状態」「健全な状態」というものが『わからなくなっている』ことだろう。
そして「不健康」「不健全」な状態であるものを「健康」「健全」と認識し、真に「健康」「健全」な状態を「不健康」「不健全」と認識してしまっている。
認識自体が「逆さま」な状態なのである。
多くの人が共有している『常識』という川は、汚れ、淀み、真っ当に生物が住めない摂河泉のようになってしまっている。
特にここ三~四年の川の「濁り」はとてもひどいもので、だから私は人々の『常識』という「常態」から距離を置いてきたが、それでも完全に離れることは出来ない。
同じ世界で暮らしているのだから当然である。
だから時々『毒出し』をする。
特別なことをするわけではなく、単に「食」を止め、「活動」を制限する。
半日で終わることもあれば、一日二日ほど「断食」のような状態にする。
「断食」と言っても全く食べない時もあれば、身体の求めに応じて何かを食する時もある。
自身の身体の状態と対話しながら、必要、不必要を判断して飲食したり止めたり・・・ということを行うだけである。
身体には本来「元に戻ろう」という意思があり働きがある。
それは身体を構成する「細胞」という「生物」が『生存本能』に従って行動する『機序』をしっかりと『聞く』ということ。
『常識』という「人の左脳」で構成された「仮想世界」の常識と、実際の「生物」にとっての「現実世界」の常識の『乖離』で起こった「歪み」を正して整える・・・ということだ。
食を止める、もしくは制限するということは、「仮想世界の常識」という淀んだ川から一旦外に「出る」ということ。
ただ「食を止める」というだけのことではなく、仮想の日常からの「離脱」が目的なのである。
身体の不調が起こる・・・ということが「不健康」「不健全」なのではない。
身体の不調が起こっているのに「離脱」できないことは「不健全」であり、それが「不健康」を生む『元』となっているわけであるのだが、人の常識は「不調を感じない」ことを「健康」としている。
だからそこから「離脱」しようとするものを「不健全」と言う。
そして、「そう言われないように」不調を引き起こす原因である「淀んだ川」に浸かりながら不調を「何とかしよう」としているわけで、だから「何とかなる」わけがないのである。
そして、何ともならないから「不調を誤魔化す」何かを続けることとなる。
それを人は「治療」と勘違いしている。
気付き
「不調になる」とは「不調」に『気付く』ということ。
だが、この『気付き』を人は「不調」と言う。
そして『気付かなければ』健康状態であるということなのだ。
健康であると言いながら『毒』を吐いている人は多い。
本当に健康ならば『毒』など吐かないのであるが、抱えきれなくなった自身の『毒』を吐き出して、常識の川を更に『汚染』させている。
そして、この『汚染状態』が「常態」となった常識の川なのである。
例えば『旅行に行く』ということは、汚染状態の川からの「離脱」を無意識に行っているわけで、無意識レベルで身体が、心が常識から「離脱」したがっている現われである。
そうして歪んだ常識から離れて「本来の正常さ」を取り戻すということなのだが、ここ数年の様子を見ていると、「本来の正常さ」を取り戻せないほどに『汚染状態』は人の心身に浸透してしまっている。
「本来の正常さ」を取り戻すために『離脱』したはずが、『汚染』を拡げるために旅行をしてしまっているということだ。
つまりは「正常さ」を取り戻すために『常識の川』から離脱したが、離脱した先の川も『汚染』されているということに他ならない。
日常を忘れるはずの『旅行』という非現実のはずの場所が、いつもの「日常」という仮想現実に『侵されている』ということだ。
都会の者は田舎へ、田舎の者は都会へ・・・・
そうやって「日常」という『仮想現実』から離脱してきたのだが、都会も田舎も全く同じ『仮想現実』という常識が「常態化」してしまっているから『離脱』とならなくなっている。
さらに、「外国に行けば」と海外へ渡っても、そこにも『離脱』したいはずの同じ『仮想現実』が待っている。
だから『離脱』出来ないわけである。
実は『離脱』したいはずの『常識』という汚染された「仮想現実」を、人は握って手放せずにいる。
旅行した先でも無意識的に「仮想現実」であることを『求めている』のである。
だから旅先でも日常の『常態』のように『毒』を吐く。
日常とは違う場所を「日常」で染めようとするのである。
『郷に入りては郷に従え』
それが「不健全」を「健全」へと回帰させる理(ことわり)なのであるが、人はそれが出来なくなってしまっている・・・というほどに『不健全』な状態が『常態化』してしまっているということであり、そしてそのことに「気付けない」ほど自身の身体の声、細胞の声、心の声を『感知』することも出来なくなっている。
断食
『断食』などの「食の制限」というものも、全く同じ『離脱』が目的なのである。
だが人はここにも『仮想現実の常識』を持ち込む。
「断食はするが栄養は確保しておかなければならないから栄養素はしっかり補給する」
その「考え」は『如何なる仮想から生まれてくる考え』なのか?
『断食』とは「修行」ではない。
「オートファジー」の活性によって状態異常を正常化させるのが目的である。
そのために『日常』から『離脱』する必要がある。
にもかかわらず『日常』を引きずっているから「栄養素を確保しておかなければ」という発想が生まれてくる。
状態異常を引き起こした「日常」の川に浸かりながら、何をもって「正常化」の判断としているのだろうかと思ってしまう。
結局は状態異常を感知したせっかくの「気付き」を『麻痺』させて、それをもって「正常化」の判断の指針としているとしか思えない。
「気付かなければ異常は無い」
ということなのだ。
そして人は「気付き」を『麻痺』させることで『治癒』とする。
それが今の「常識」という『仮想現実世界』の在り様なのだ。
『麻痺』させることを『治癒』としてしまった仮想現実に生きる人にとって、『気付き』とは「害悪」でしかない。
だから『麻痺』させる道を「常識」としてしまった人は『麻痺させてくれる麻薬』を求める。
「麻薬」とは『気付き』を『無かったことに』させてくれるもの・・・・
それは「安心」を求めてのことである。
そして、「安心」を求めるものの根っこに「恐れ」がある。
「恐れ」とは「異常探知」による正常な反応なのである。
だがその「恐れ」は、心身が正常さを取り戻すためでなく、心身が異常さを「気付く」ことへの恐れにすり替わっており、「気付きを麻痺」させることで「安心」を得ようとするのが「常態」となってしまっている。
人は「健康」「健全」でありたいと願うのは当然のこと。
だが、「健康」「健全」であると思いたいために「気付き」を封じてしまっては元も子もないのである。
私のところへ来る人たちも同様である。
せっかく『気付き』があったから来たのに、やがて『気付き』を封じにかかる人の多いこと・・・・・
自分が「健康」「健全」であるということは、「不調にならない」ということではないのだが、「不調になる」イコール「健康健全では無い」というおかしな思考が出来上がっている。
これも『汚染された常識』というものなのだ。
健康であり健全であればあるほど、不調には「気付きやすい」のである。
気付きが鋭敏になればなるほどに「不調」というものに気付きやすくなる。
そして、それは「日常」としてきたものの『異常性』に気付くということだ。
だが人は「日常」を改善しようとせず、「自身」を改善しようとする。
結果『気付き』を封じるという方向へ「歪んで」行くのである。
ホリスティックとは
ハワイに伝統として伝わる『ロミロミ』というマッサージがあるが、それは単なるマッサージ技術ではない。
本来「カフナ」と呼ばれる聖職者が「病」となった者を治癒するための手段であり、その手段の中のほんの一部が「マッサージ」なだけである。
カフナは「病」となった者の『日常』というものを見極め、そして『指導』して「病」となった「日常」という要因を修正するのである。
その際、周囲の人たち、つまり家族や友人などとの「関わり」なども当然『指導』の範疇であり、それらの「環境要因」も含めて修正してゆくのが「ロミロミ」という『治癒』である。
『ホリスティック』というものの原点である『生命への回帰』の基本がそこにある。
恐らく、ほんの四年ほど前から人々が「自身を麻痺させる」という『常識』が日常に根深く定着し始めた。
だから、自身が「良くなっている」と思いたくて『気付き』を封じる傾向にある。
そして、『気付き』を封じる『麻薬』に走り、気付きを封じてくれる言葉や日常や振る舞いへと没入してゆき、『気付き』を『無かったこと』にしようとするのである。
だが、「歪み」は容赦なく「正常とは何か」を気付かせようとする。
だからさらに「逃げる」行動をとってゆく。
『気付き』という「右脳」が伝える『現実』を、「左脳」が作り出した『仮想現実』で歪めてゆく・・・・
世界中が『病み』に囚われている最大の要因であろう。
昨今では『治癒』とは「何を変えるか」という『選択』となっている。
現実を仮想現実へと変えるのか、仮想現実を現実へと変えるのか・・・・
それは『気付き』に対して自身がどのような行動をとるか・・・
その『選択』によって全く違う道へと進むこととなるのだ。
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