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自分を変革するために選択を精査する




自分の選択というものをしっかりと精査することが大切です。

自分自身が「なぜ?」それを選択しているのかということを自分自身が明確にしていないと、自分の選択、行動に『責任を持つ』ということが出来ません。


その『責任』とは「誰?」に対しての責任なのか・・・ということも「選択の精査」には不可欠です。


他者に対して「責任」を感じるのか、それとも自分自身に対して「責任」を持つのか・・・

たったそれだけのことを知っているかいないかで、自身のその後の行動に雲泥の差が生まれます。



「選択する」ということは、道の分岐を「選んで進む」ということです。

それは「特別」な選択だけでなく、日常のあらゆる「選択」が精査の対象です。


そんな「選択」の中には『無意識の選択』というものがたくさんあり、それは『選び癖』のようになっているものでもあります。

自身の「選び癖」がその人の「性格」といっても過言ではないくらいです。


それは幼少期から「家庭」という環境の中で何度も「反復」してきた『選び癖』であり、『環境依存度』が非常に高い「癖」です。

それは親兄弟や身近な人との「関係性」に左右されるもので、身近であるゆえに「根深い」無意識層の「癖」となっているもの。

幼少期の柔らかい精神をその環境が「選択癖を固めていった」といってもいいでしょう。



人は日々、何度も何度も「選択」をしています。

考え、悩み選択する場合もあれば、無意識に自動的に選択しているものも多々あります。


それらの「選択」を精査することこそ『自分を知る』ということです。



また、「選択の精査」と同じく『感情の精査』も大切です。

自分が何に怒り、何に喜び、何を悲しみ、何を恐れているのかという、自分の感情の「揺らぎ癖」というものを知ることです。

その「感情の揺らぎ」にもやはり「選択」というものがあることがわかるでしょう。

無意識の『選び癖』というものが根っこにあるからです。



幼少期に身近にあった「家族」というものの『鋳型』が自分自身にあります。

例えば、親にDVされてきた子供は自分が親になったら同じように子供にDVをしてしまう・・・

それは「無意識層の選択の鋳型」によるものです。


自分の『選択癖』の中にその『鋳型』が存在しているから、忌み嫌っているはずの親と「同じような選択」をしてしまうことになる。

そしてそれは子孫に延々と受け継がれていく「鋳型」となるわけです。



こういった「無意識層の選択の鋳型」というものから自分自身を「解放」することが、自分自身を変える・・・「変革する」ということになります。




「自分の世界を変える」ということは、自分が目にする、耳にする世界を変えるということです。

自分が目にして耳にしている世界というのは、自分自身が「引き寄せて」いる世界です。

それは「世界との関係性」によって変化するもの。


その「世界」とは「現実」


自分の現実とは自分の人生であり、人生とは選択肢を選び進む道の道程です。

その道程において自分が常に「同じ選択」をしているから世界が変わらない。

同じ景色の道ばかりを選んで進んでいるのは自分自身の選択であるということを知ることです。


そして「引き寄せている」と見えているものは、実は『自分から向かっている』ということなのです。

「引き寄せている」のではなく「引き寄せられて」いるわけです。

「引き寄せられている」というのは「選択させられている」ということに他なりません。


マインドコントロールというものは、自分自身が「舵取り」をしていなければならないはずなのですが、実は「舵取りを他者に委ねている」自分の『選択』があるからコントロールされるわけです。

それは「自分で選択するより委ねた方が楽」という『選び癖』が自身の中にあるということ。


選択を委ねて自分は「選択しない」という、それは一つの『選択』をしているのです。

そんな選択の仕方も「選択癖」や「選択の鋳型」であったりします。


幼少期の「選べない」がいつしか「選ばない」という「選択癖」になったりしたものもあるでしょう。

命令する親、先回りする親などとの関係性で癖がついたりします。




「自信」というものは、自身の「選択」に対する「信頼」です。

自身が無いのは不明瞭な選択、曖昧な選択によるものです。


道の分岐点に於いてしっかりと考えて道を選んだ者と、ただ癖で無意識に選んだ者と、「この道間違ってないか?」と聞かれたときに対する「心」そのものです。


常に「不安感」があるのは、常の選択の不透明さゆえ。

それが「恐れ」となり自身の無さとなり、「正しさ」という「他者の選択」に『選択を委ねる』ということになるわけです。



現代の学校というものは、いわば親に変わって「選択の依存性」を育んでいる状況でもあるわけです。

まだ柔らかい幼少の精神に、「選び癖」「選択の鋳型」を植え付けているわけです。

「自主性を育む」と言いながら、「自主性の鋳型」を提示して「選択」の方向性を「癖付け」したりするわけです。


だから「自主性」という「正解の鋳型」に自信が「依存」していることも「意識」出来ない「無意識層」にすでに「癖付け」されているわけです。



「自主性」とは「自分が主(あるじ)」であるということ。

それは「選択」そのものが自分が主体であるということ。

しかし、「鋳型」に沿う時点で「自主性」は失われている。

そして、「鋳型」から外れた「自主性」は「異常性」となる。

これも「選択」のコントロールなのです。


だから、人は「世界を変える」というとき、他者を変えようとし、他者をコントロールしようとする。

すでに無意識層の「鋳型」に沿って選択してしまっているからです。

「育む」という行為の中に「コントロール」があり、それを受け入れれば「コントロールする鋳型」が自分の中に出来上がる。

だから他者を変えようとする。

しかし変えることは出来ない。

なぜなら、変えようとしている他者の中にも「同じ鋳型」があるから。

変えようとする相手も自分と同じく「他者を変えよう」という「鋳型」があるから変わらないのです。



自分の「選択」を知らなければ、自分の世界は変わらず、自分の世界が変わらなければ『神』という存在にはけっして届きません。

「神意」や「言霊」がいくら降りようとも、心の中にいくつもの「選択の壁」があり、それが迷路のようにくねくねと降り曲がっているからです。


自分が無意識に選択しているものが「魂の選択」などと思ったら大間違いです。

無意識層にいくつも枝分かれした「道の鋳型」があり、いかに鋳型に沿って自身が選択をしているかを知り、それらの鋳型をひとつひとつ壊さなければ、魂の意思は真っ直ぐ自身の行動に直結することはあり得ません。


だから、そのために『選択の精査』をする必要があるのです。




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