『情報』の取捨選択と自分の『情』の在処 ~情報操作という『呪』
- 亞空 淺田
- 4月26日
- 読了時間: 7分

『情報』とは『情に報いる』ものであり、自身の『情』が求めている(報いる)ものを「自ずから」取捨選択しているわけで、それはつまり『その情報を選択』する意前から既に『どんな情報を選択するか』ということは決まっているものなのだ。
人は「知る」という「知的好奇心」によって『情報』を求め、「好奇心」という『感情』で『情報』を取捨選択しているのである。
それは、趣味趣向や日々の活動や「仕事」などの場合でも『同じ』であり、当然、その根本にあるのは「自分の感情を満足させる」ということだ。
「情報通」などという言葉があるが、それは彼らが自身の「情」をそれで「満足」させるための活動であり、収集する「喜び」なのか、それとも収集せねばという「恐れ」からなのかは別として、どちらにしても自身の「情」が元となっているだけのこと。
そして人は自身の「情」を最も「満足」させてくれるものを「最も高く評価」しているだけであり、そしてそれを『真実』として「採用」するのである。
それが自身の「情緒」にとっての『健全性(安定性)』を保つ手段であるから・・・ということになる。
情報を求めている・・・ということは、「情」に何らかの「不安定要素」があるからで、その不安定ゆえの「揺れ」を鎮める(安定させる)ために「情」を安定させる「情報」を求めているのである。
そして、圧倒的大多数の「情緒」の揺れ方というものがあり、その揺れを「鎮める」ための『情報』というものが『常識』というものの正体となる。
多くの人が「それ」を採用することで、多くの人の情緒が「安定」するもの・・・
それが「常識」という知的情報として定着している。
それを理解しているからこそ「常識」という基盤を「どのようなものにするか」ということを『意図』して定着させることが可能となる。
つまりは、多くの人の『情緒』の『揺れ』を同じくして、そのうえで『情に報いる』物語を提供すれば、それが『常識』として根付くわけである。
本来の「情報」というもの
本来、『情報』というものは「感覚」が察知したものである。
それは「現実」の「出来事」の中で起こる現象を「五感」が『感知』するものが『情報』なのである。
すべての生きとし生けるものはすべて『感知』を「事実」として認定している。
だが、人は『言葉』によって『感知』が曇ってしまう。
それは『言葉』によって『情』が波立ち、『感知』を『情』が「上書き」してしまう。
『感知』して『情』が波立ち、その『情』を鎮めるために『情報』を求め、『情』が鎮まる最適な『情報』へと行き着く。
何を『感知』し、何に『情』が揺れたのか?
ということは『忘却』され、ただ単に『情』を鎮めるための『知識』を採り入れる・・・というところで終わる。
本当なら『感知』した『感覚』と「照らし合わせる」という作業をしなければならないのだが、波立つ『情』の揺れに圧倒されているため、肝心なそのことを「忘却」するわけである。
また、その「忘却」も「鎮める」ということに対する一因を担っている。
「そこ(その情報)に落ち着けばいい」という・・・
そして、その『落ち着く』場所が『常識』と言われるものとなっていく。
「情報を信じる」という時、最も自身の「情の揺れを安定させてくれる」というのが真実である。
この『情の揺れ』という自身の心の揺れの「元」を客観的に見れなければ、人はただ「情」を揺さぶられ、揺さぶられた情を「鎮める」ためだけに「取捨選択」するものは、揺さぶった者が用意した「避難地」であるということに気付くことは出来ない。
つまり、「情報操作」というものは、「情」を揺さぶり「報いる」という「安心地帯(情が鎮まる場)」を用意するという『追い込み漁』のようなものである。
「怒り」「喜び」「悲しみ」「恐れ」という『情』の「揺れ(波)」を起こし、それらが「鎮まる場」、つまり「安心できる情報」を用意するということだ。
人は『言葉』によって『情』を増幅する生き物である。
さらに、『言葉』によって『執着』する生き物でもある。
『情』によってあふれる『言葉』が、いつしか『言葉』によって『情』を波立たせるという「逆転」を生んでいる。
自分に起こりやすい『情の波』は、自分の思考に出てくる『言葉』を「繰り返す」ことで、いつしか『情』と『言葉』が勝手に「共鳴」してしまう『癖』となる。
そして、それを『回避(避難)』する『情報』を求める・・・という『癖』も出来上がる。
そして、それが積みあがって「記憶」となり、『感情』までもが記憶に刻み付けられるような現象を引き起こしてしまう。
「情緒の揺れと、それを鎮める行動」
それが『性格』という「性質」として定着する。
自分の性格は自分の『感情』と、その「波」を解消する「行動指針」のように形作られているものであり、だから根っこにある『感情』が何なのか?
「怒り」か「喜び」か「悲しみ」か「恐れ」か・・・・
どの感情も人にとって必要不可欠であり、常にそれらは巡り回っているものであるが、何がしかの出来事が引き金となり、根っこにある感情が表面に出てくる。
そして『居付く』。
そうなると『情緒』は常に波立ち、心の揺れは「安定」を欠いて来る。
その不安定さを解消するために取る行動が『悪』となるものである。
「怒り」が根っこにあれば「怒り」の『悪』
「喜び」が根っこにあれば「喜び」の『悪』
「悲しみ」なら「悲しみ」の・・・
「恐れ」なら「恐れ」の『悪』が出る。
根っこにある感情の「しこり」が、「怒り」なら「喜び」へ
「喜び」なら「悲しみ」へ
「悲しみ」なら「恐れ」へ
「恐れ」なら「怒り」へ・・・と『悪』は向かう。
『悪』という定義は「そぐわない」というもの。
それをしても「解消」されないが、「解消」しているように錯覚させるもの。
だから「鎮まる」という結果へは向かわず、さらに「波」を大きくしてしまうもの・・・
それが『悪』というものだ。
「恐れ」→「怒り」→「喜び」→「悲しみ」
これが正常な「巡り」であるが
「恐れ」⇔「喜び」 「怒り」⇔「悲しみ」
という方向へ向かう時、『悪』となっているわけである。
どういうことかというと、「恐れ」を解消するために、別の者を「恐れ」させることで「喜び」へと至り、波の高まりを「一時的」に鎮める。
「怒り」を解消するために、誰かの「悲しみ」を必要とし、「悲しみ」を解消するために「怒り」へと没入してゆく。
二つの情緒を行ったり来たり・・・という正常な「巡り」が狂った状態になるということ。
これを「相克(そうこく)相乗(そうじょう)」という。
また、「恐れ」→「悲しみ」→「喜び」→「怒り」
というふうに「逆流」することもある。
これは「下降する巡り」となり、人の精神状態がどんどん「下降」してゆき、やがては「滅する」というところに「安寧」を求める巡りである。
「恐れ」に対して「怒り」を発するのは「正常」である。
しかし、「恐れ」から「悲しみ」へと巡り、その先に「喜び」という安寧を見出してしまえば、人は自らを「滅する」ことへと進んでしまうだろう。
これを「相嫌(そうぶ)」という。
何故、このようなことを書いているかというと、やがて人々はこの「渦」の中に突入してゆく。
今現在、起こっている現象は、もっと大きな流れとなっていくことがわかるからだ。
『情緒』の波を鎮めるために『情報』を求めるがゆえに、更なる大きな『情』の大波を起こしてしまう。
正常な「巡り(相生・そうせい)」を忘れ、「相克」する循環を行ったり来たりしたり、「相嫌」する逆巻く巡りへと落ち込んでゆく。
『言葉』によって『情緒』を操作する『呪』というものを「日常」として、「常識」として定着させ、そこに「安寧」を見出してきた『ツケ』であろう。
常日頃から人は「情緒を操作」しようとすることが「当たり前」となってしまっている。
「誰もが・・・」である。
それを『善』と言い、それを『仕事』と言い、それを『優しさ』と言い、それを『愛』などと呼び・・・・
禁断の果実を食べるよう「イヴ」の『情緒』を操作した「蛇」のように、人は当たり前のように『情緒』を操作しようとする。
そんなことのために『言葉』を使う。
『言葉』を【神】とするならば、今の【神】が【悪神】であることがよくわかるだろう。
誠の【神】とは『真言』を使う。
人の情緒を操作し「相克」、「相嫌」させるような言葉は使わない。
『言葉』を見ればその人の「芯」というものがわかるのである。
『言葉』を「どのように」使っているかで【神】とするものが何であるかわかるだろう。
だが人の波立つ『情緒』は、「真言」など目にも耳にも届かなくなる時間に突入してゆく。
その時、唯一頼れるものは、自身の「感受」の信頼性だけとなる。
そこに『信』を置けなければ、『情報』という『情』に報いる『呪』に翻弄されてゆくこととなる。
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