【霊力】『陰陽五行(天地五龍)と七つのチャクラ』~神人一致と霊懸かりの違い
- 亞空 淺田
- 5月9日
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更新日:4 日前

癒奏術の『霊力』の発動
癒奏術に於ける様々な『霊的施術』をする際に必要となる『霊力(気力)』を発動させるために、『チャクラ』の発動が不可欠となる。
それは、例えば「重い物」を持ち上げるのに『筋力』が必要なように、『力』を「行使する」ということは『力』の発動が必要であり、その『力』を「どのように」発動させ行使するかという『機序』がある。
相当重たいものを持ち上げるには、息を吸い、持ち上げる「手」以外の「全身」に力を入れる。
そして同時に「バランス」を取り、支点と力点というものを感覚で掴みながら、物を「持ち上げる」という『力』が『行使』されるわけである。
肉体で重い物を持ち上げる時に使う「筋・息」を意識して使い、「血・骨」が無意識化で使われ、そのバランス、調和を保つ「運」によって「次の行動」へと繋いでゆく・・・という『機序』がある。
霊的な『力』を使う場合も同じく『機序』がある。
それが『チャクラ』というものである。
そして、チャクラを『発動』させるに於いても「筋・息・血・骨・運」という肉体を使った『エネルギー発動』をさせるのである。
筋 息 血 骨 運
これを『天地五龍図』に当てはめると次のようになる。

最初の発動は「筋」であり、呼吸をするにも「横隔膜」を動かす「筋」の発動が先となる。
そして、筋の発動により「呼吸」が生まれ、肺が取り込んだ「気」が「血液」に溶け込み流れ、骨髄が活性する。
「筋」で「息」を動かすように、「血」で「髄」を動かすこととなる。
「筋・息」は「意識下」で支配できるが、「血・骨」は「意識的」には動かせない。
つまり、「運」という『巡らせる』ところに『陰陽』が存在する。
「筋・息」が『陽(火)』であり「血・骨」が『陰(水)』となる。
そして、「燃え続ける」という「運」による『巡り』が「連鎖」を生み続けるわけである。
上図の通り「筋」の発動により「第3チャクラ」は発動され、「息」により「第5チャクラ」は発動され、「血」が動き「第2チャクラ」は発動し、「骨(髄)」が活性することで「第6チャクラ」は活性する。
それらの『巡り』を「第4チャクラ」が巡らせる。
そこで発動された『霊力(気力)』が『陰陽(天地)』のチャクラである『第1・第7チャクラ』を巡るわけであるが、最初の「第3チャクラ」を発動させるためには「第7チャクラ(陽・天)」と「第1チャクラ(陰・地)」の『循環』が大前提である。
そもそも「陰陽」の巡りが無ければすべての『発動』も『運行』も無い。
第1チャクラとは「陰の極み」であり、第7チャクラは「陽の極み」である。
肉体に於いては「五体・五臓の極み」であり、霊体に於いては「五感・五響」の極みとなる。
「五響」とは「振動」であり「波長」である。
チャクラはそれぞれ「波長」が異なる。
だが「波長」にも「陰陽」があり、「反転」した波長が「同時」に存在している。
「五感」とは波長の違う「響」を知る「感受」であり、「目・耳・鼻・舌・肌」というそれぞれの「器官」となって肉体に現れている。
だが、それら器官を活動させる以前に「活動させる」という「意」が最初にある。
その「意」の発動が「第7チャクラ(天)」からの「雷」であり、それが「第一チャクラ(地)」に落ちる。
その「ルート上」に五つのチャクラは存在し、そこで「活」が入る。
地に落ちた「雷」は今度は「跳ね返る」ことで再び「天」へと昇る。
その「跳ね返り」の力で「活」の入ったチャクラは「動」へと移行し「活動」することとなる。
肉体を動かす場合も全く同じ機序である。
「意思」が「電気信号」を「筋」に伝えて動かし、その後他の期間が動き出す。
その「動き」に従って「次の行動」へと「連鎖」されてゆく。
行動と結果の「連続性」である。
それをさらに分解すると、ブッダの「受・想」「行・識」となる。
肉体を動かしている最初のものは「脳」である。
では、その「脳」を動かしているのは何であるか?
それが『霊』である。
脳とは?
脳とはブッダが語った「受・想・行・識」そのもの。
「受」によって「反応」するものである。
それを書いていくと「別の話」へと移行してしまうので、また別の機会に書くこととする。
『霊』というものが最初の「雷」を落として「意思」を「点火」する。
そうして「筋」が発動し、連鎖してゆく。
チャクラも同じ。
『霊』が「第1チャクラ」に「雷」を落とし、「第6・第2・第5・第3」と通過し「活」を入れ、第1チャクラから跳ね返った「響」が「第3・第5・第2・第6」を『共振』させながら「第7チャクラ」へと戻る。
第1と第7チャクラの「陰陽」の連鎖は二通りあり、一つは「脊柱」を行き来するもの。
もう一つは身体の外周を「周転」するもの。
天から地に「下る」のが「陽から陰」への動き。
地から天へと「上る」のが「陰から陽」への動き。
「陽」は「受・想」となり「活」となる。
「陰」は「行・識」となり「動」となる。
「力(ちから)」とは、そのまま「地から・・・」ということであり、地から天へと昇る「響」が「動」のエネルギーである。
そして「第4チャクラ」は「脾臓」であり「芯」である。
ここが「天地」と同じ「中心軸」に無ければ、天地は繋がらず、他のチャクラも発動しない。
第4チャクラは「巡り」を司る。
つまり「巡る」という最も重要な要素が無ければ、そもそも天から地への「雷」は降りないのである。
巡らなければどこかで「詰まる」か、降りても「弾かれて」しまうのである。
天から地への一直線の流れも「巡り」である。
天から地へ、地から天への「陰陽の巡り」であり、「肝・心・肺・腎」の「巡り」であり「チャクラ」の「巡り」でもある。
霊力の発動
霊力を高めるために「チャクラ」を動かすわけであるが、そもそも「チャクラ」は何をするのか?
「力」を天へと還す。
それは「力」を『霊』へ還すということ。
『霊』から『肉体』へ「意」を伝え、『肉体』から『霊』へと「響」を還すわけである。
その「響」のエネルギーを『霊力』に転化するわけである。
肉体の「陰陽五行」のエネルギーの巡りを、霊体の「陰陽五行」のエネルギーへと転化するのが「チャクラ」の役割。
それによって自身の『霊力』を高めるわけである。
肉体と頭脳を高めるのと同じく、霊体と能力を高めるわけである。
人が「憑きもの」に感化されやすいのは『霊力』が「憑きもの」より劣っているからである。
いとも簡単に「意思を乗っ取られる」わけである。
それは「思考」を乗っ取られ、行動を乗っ取られるという「循環」へと帰結する。
先に書いたように《「脳」を動かしているのは何であるか?》ということに繋がる。
つまりは『自分という霊』ではないものに「動かされる」ということとなる。
脳は常に『霊的存在』の「干渉」を受けている。
それは単に脳が「響き」という「波長」に感応する器官だからである。
その「響き」の「波長」の『区別』がつかなければ、そもそも「自分」というものが『わかっていない』ことになる。
『何をもって自分を自分としているのか?』
これは別に哲学的な話ではない。
ここでの「自分」とは『芯』のことである。
そして「芯」を軸とした「巡り」のことである。
それが「自他」を分ける『区別』の元となるものだ。
そして『芯』が無ければ『霊力』は高まらない。
当然である。
肉体を鍛えるにも、頭脳を鍛えるにも「芯」が必要である。
それと何ら変わることはない。
霊力を鍛えるためには「芯」が必須であり、それは「第4チャクラ」を「第7・第1チャクラ」の『芯』に合わせるということ。
「芯」が無ければ「独楽(こま)」は回らないように、第4チャクラの「芯」が無ければ、チャクラの「巡り」はそもそも起こらない。
ゆえに霊力を高めることも出来ないわけである。
肉体の様々な『巡り』が狂えば、肉体は当然『病み』となる。
霊体も同じ。
『巡り』が無ければ『闇(病み)』となる。
『闇』となるから「憑きもの」と「自分」の区別がつかない。
そして、より強い『響き』が「脳」に感化し、思考と感情が「憑きもの」によって隆起される。
その時の肉体は「憑きもの」の霊体の姿を醸し出す。
だから『憑いている』とわかるのである。
中心軸のズレた霊力
施術をしていて、時々、天地の『軸』が「ズレて」しまっている人を観る。
第7チャクラである「天」が開いているのだが、それが「中心」に無いのである。
必ずと言っていいほど「左側」にズレている。
これは「無理に穴を開けた」ということ。
本来、第4チャクラが第7チャクラと「同じ中心軸」になった時に「開く」ものを、「中心軸」が定まっていないのに無理に「開けた」ということだ。
そして、この『穴』は外部の「霊的干渉」を強めることとなる。
そして、それをもって『霊力』とする・・・という、いわば『邪道』を行っていることになる。
つまりは『何者かに自身の肉体を差し出している』ということだ。
よく『悪魔に魂を売る』と言うが、実際は『肉体を差し出す』わけである。
自分の「魂」から肉体の所有権を「差し出す」ということだ。
つまりは「そのようになってしまいかねないことを、知らずに行っている」者がけっこう居るということ。
けっこう居るということは、それなりに広く行われているということになる。
それなりの「知名度があるもの」ということだ。
自身の『霊体』を鍛えないうちに、楽して『霊力』を望めば、『邪道』を使うということになるだろう。
あえて『何者かの力』を借りて使っている霊能者も少なからず居るわけである。
私の能力も見方を変えれば『別の者』の能力である。
「結び」は行っているから「別の者」だけの霊力ではないが、当然、その『力』も借りているわけである。
何が違うかと言えばただひとつ、『芯』である。
だから『譲り渡す』こともなければ『勝手に使われる』こともない。
そして『区別』をつけるということをしている。
岩戸(第7チャクラ)が開けば、霊的干渉は劇的に増える。
「憑きもの」として寄ってくるものも劇的に増える。
そんな状態で自身の「霊体」が貧弱であれば、簡単に押しのけられて『感化』され続けることとなる。
そして、それを自身の「霊力」などと勘違いするのである。
霊界干渉
霊界に干渉するということは、魑魅魍魎などとも対峙することとなる。
「知らぬが仏」とはよく言ったものだ。
癒奏術では『霊界干渉』を行う。
そこでは、様々なものと出会う。
施術を行う人の周辺にいる様々な『霊的生命』と出会うことになる。
だから「様々な干渉」があることをよく知っている。
干渉することで「逃げるもの」「怒るもの」「騙そうとするもの」「ただ見ているもの」と様々である。
そして、その人そのものの『霊体』とも干渉する。
その『霊』を次元を超えて「連れて行く」こともしたりする。
それらを行うにはそれなりのエネルギーが必要なわけで、そのエネルギーを発動させるために「チャクラ」を巡らせて肉体のエネルギーを霊的エネルギーに転化せねばならない。
そのために、瞬時にチャクラを活性させ活動させるために、当然「肉体」を動かす。
筋・息・血・骨に気力を巡らせ、それを「霊的波長」へと転化して『霊界』へ突入するという機序である。
それには、肉体を巡るエネルギーを「感受」せねばならず、滞りなく巡ることで「チャクラ」へと転化し、チャクラの「巡りのルート」にちゃんと巡っているかも感受して、そのエネルギーを蓄積した後、発火させて膨大な「霊的エネルギー体」へと自身を変える。
つまりは「霊体の姿」そのものが変わる。
そして、自身の意思で「このような姿に」と変えるのではなく、必要に応じて「導かれるまま」転化する。
そこは私自身の「理解」を超えた『選択』だからである。
それを『神的存在』に任せるということになる。
自身に降りた『分け御魂』にそこは委ねるということになる。
先に挙げた『別の者の能力を使う』とはそういうことである。
ヨガという「筋・息・血・骨」の「巡り」
ヨガには「陰陽五行」の「巡り」を整えるという要素がある。
筋を動かし呼吸を動かし、気血を巡らせ骨を通して力を流す。
筋には伸筋・屈筋の陰陽があり、息には吸う・吐くの陰陽があり、血には押す・引くの陰陽があり、骨には支える・逃がすの陰陽がある。
そして、気を巡らせ、力を巡らせるとい陰陽が全体的にある。
五体を動かし、五臓を動かし、五感を動かし、五響を巡らせるという機序が存在している。
それらを「意識」することで、より効果は高まるだろう。
意識するのは「巡り」である。
けっして「型」ではない。
「型」は「巡り」を生む「模範」であり「影」である。
光を当てるのは「巡り」のほう。
筋を使い血を動かし、息を使い血に気を送る。
その血が骨が作った道筋を通り力へとどのように転化していくのかという「感受」
そして、その力が再び筋へと回帰し、息・血・骨へと再び巡る「流れ」を「感受」する。
五体内部の巡り、表面の巡り、五臓五腑への巡りを「感受」する。
その「途切れない連続性」がエネルギーを生み出し、チャクラへと染みわたってゆく。
染みわたったエネルギーが、チャクラを動かしてゆく様を「感受」する。
チャクラの動き(回り)が強くなってくるのを「感受」する。
その巡るエネルギーが「蓄積」されるのを「感受」する。
蓄積されたエネルギーが発火するのを感受する。
発火したエネルギーが全身全霊に行き渡るのを「感受」する。
行き渡ったエネルギーが「機序」に沿って巡るのを「感受」する。
自身の霊体が変化するのを「感受」する。
そこが「感受の岬」
その先に「外的世界」を「感受」する。
霊界干渉へ至る機序である。
「巡りの機序」そのものを知れば、「即身成仏」となる。
「仏」とは「十(かみ)」が「卍(うごく)」ということ。
真(芯)の第7チャクラの縦糸の先にある、自分の霊的「祖(おや)」である「神」を自身の肉体に宿す「十(芯)」があって「卍(独楽)」は回る。
その大事な芯がズレていたら、独楽は回らないか、歪(いびつ)に回るしかない。
そして、霊的「祖(おや)」ではなく「別物」の干渉を受けてしまうということだ。
巡りの機序が「正常」であるかということは、非常に重要なことである。
滞りや歪みがあれば、自身の力はけっして高まらない。
そこに「祖(おや)」の霊力は存在せず、「即身成仏」ともならない。
それは『霊懸かり』というものでしかないということだ。
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